マッチ売りの少女アリーセ 第八話
金曜日の朝。伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは、彼女の寝床で目を覚ます。
レアルで三百年の伝統を持つ家具職人の工房で造られたそのベッドは、見た目の華麗な装飾は勿論、寝心地も完璧だ。
それでも今朝のエレーヌの寝覚めは悪かった。
うなされるように跳ね起きて辺りを見回したエレーヌは、サリエルを呼ぶ為のベルも鳴らさず、眉間に皺を寄せ忌々しげに奥歯を噛み締めながら、一人で身支度する為に洗面所へ向かう。
一時間後。
今朝は遅刻をしなかったサリエルが、エレーヌの分の鞄も持って学院の制服姿で屋敷の玄関ロータリーに現れる。
今朝のサリエルは珍しく、していると解る程のメイクをしていた。連日の寝不足で出来た目元のクマや瞼の浮腫みを隠す為である。
「おはようございます」
そして普段はこの見送りを欠かさず行う執事長ディミトリの姿が無かった。今日は代わりに執事見習いとメイド長のヘルダが見送り役に来ている。
そしてサリエルの後から現れたエレーヌは、朝から眉間に皺を寄せ、睨みつけるような視線で辺りを見回し、殆ど何も喋らず。明らかに機嫌の悪い様子で居た。
屋敷の使用人達は思う。昨日はあんなに上機嫌でお優しかったのに。
「行ってらっしゃいませ」
それでも今朝の伯爵屋敷ではエレーヌの怒号と使用人達の謝罪が飛び交う事もなく、静かに時が過ぎていた。
「お嬢様、今朝はあまり表情が優れませんが……屋敷の者に何か手落ちがございましたでしょうか?」
サリエルは馬車が動き出すのを待ってそう問い掛けた。
勿論サリエルはそんな事をすればこの女主人に噛みつかれるという事は解っている。しかし噛まれる事で女主人のストレスを解消させるもサリエルの仕事なのだ。サリエルはこの仕事に誇りと愛着を持っていた。
エレーヌは窓の外を睨んだまま答える。
「たいした事ではありませんわ。今朝は酷く夢見が悪かったのよ」
サリエルはびくりと肩を震わせる。まさかエレーヌは自分がテーラーに押し入って失敗した事を知っていて、その事を言う気なのではないか?
「夢の中で私は何故か狼犬になっていて、ちんちくりんのサルみたいな小娘に顎で使われて雪原でそりを引いてましたの……ああ忌々しい、何なのよあのサルは!」
サリエルは思う。良かった。エレーヌの不機嫌の理由は自分と全く関係無かった。
「おいたわしゅうございます、お嬢様」
「労しいじゃないわよ! 夢なんか夢でしかありませんわ、私、それなのに腹を立てている自分に苛立ってますのよ」
「申し訳ございません」
殆ど形通りのやり取りを長屋通りまでに済ませ、サリエルは鞄から歴史の教科書を取り出して開く。
馬車しばらくはそのまま。いつも通りに進む。鍛冶屋通りから金融通り。そして……戦勝記念通りへと。
「……止めて!」
そこまでただじっと車窓を睨んでいたエレーヌが鋭く命じ、馬車は止まる。御者の方もその光景を見てすぐ、エレーヌに止められる予感がしていたのだ。
戦勝記念通りのテーラー『梟の森』の前には、市の警察の蒸気自動車一台と騎馬警官の馬四頭がとめられていた。昨日は二人しか居なかった制服警官の姿も数倍に増えている。
馬車の扉を自分で開け、飛ぶように降りたエレーヌはそこに駆け寄って来た。現場には昨日のミシリエ刑事の他、フィネル刑事も来ていた。こちらもエレーヌとは顔見知りである。
「一体これは何の騒ぎですの!? この店に今度は何が起きましたの!?」
「伯爵令嬢、貴女でも近づかないで下さい。これは我々の仕事ですので」
ミシリエ刑事は言葉でそう制止するが、エレーヌは聞き分けずショーウインドウに突進しへばりつく。
「ああ……ミトンは無事ですわ……一体どうなってますの!? また賊が現れましたの!?」
「……本当に貴女は何も御存知無いのでしょうな? 昨夜は店員が発砲する程の騒ぎになったのです」
「二晩続けて同じ賊が出ましたの!?」
「それはまだ断定出来ません。ですが我々は必ず犯人の足取りを……」
エレーヌはショーウインドウから離れ立ち上がる。
「何を悠長な事をおっしゃっているの!? 何故立て続けに現れた賊を捕まえられませんの! 犯人の足取りですって? 貴方達ストランドマガジンの読み過ぎではございませんの!? 名探偵にでもなったおつもり!? 犯人が向こうからやって来るのは探偵小説の中だけですわよ!」
「ああ、あの、伯爵令嬢……」
「貴方達は本物の、プロの警察官ですわ! 本物の警察官は泥臭く! 執念深く! 力と知恵の総力を挙げて容疑者を追跡するものではございませんの!?」
「エレーヌ嬢それは私共にも解っています!」
オーギュスト・ストーンハート伯爵はこの国を代表する政治家の一人であり、絶対君主である国王の信頼も厚い大人物である。彼を実質的なこの国の宰相と見る者も多い。
その娘エレーヌの母方の祖父は先代の国王の弟で、母は現国王の従姉で社交界では有名な女傑だという。
役人が気を遣うなというのも無理な話になる。
「カトラスブルグ警察の威信にかけて。これ以上犯人の自由にはさせません」
「当然ですわ! 何の為に給料をいただいているのかしら!」
エレーヌがまたミシリエ刑事に悪態をつく。フィネル刑事の方は聞こえないふりをしていたが、こんな事を言われて気にならない訳が無い。
エレーヌは苛立った様子で馬車の中に戻って来る。
「二日続けて同じ店が狙われて、警察が何も出来なかったなんて……有り得ますの!?」
エレーヌという人間は決して頭が悪い訳ではない。本来は物事を客観視して周囲の様々な情報と照合し大局的に判断する、広い視野も持ち合わせている。
しかしエレーヌには弱点があって、自分の個人的な感情が絡む事柄になるとそういう視野の広さが全く発揮できず、単一的な視点でしかその事象を見られなくなってしまうのだ。
だからエレーヌは今日もサリエルが馬車を降りずそこに留まっていた事も、大理石のように青白くなって座席に凝固していた事にも気がつかなかった。
エレーヌも水曜日の朝に朝食の席でディミトリにあのミトンを何としても購入するよう申し付けた事まで忘れている訳では無い。
あのミトンが欲しいと思う気持ちのあまり多少過激と取れる言葉を使った事も覚えているが、エレーヌの中ではそれは極めて常識的な人物であるディミトリがあのミトンの購入交渉を一言で断られて簡単に諦めないよう、叱咤激励するつもりで言い添えたものだった。
そしてエレーヌはディミトリに会ったらあの命令は取り下げると伝えるつもりでいた。しかしディミトリは昨夜も今朝も出掛けていて留守だと言う。
そしてエレーヌの中では、この事はあくまでディミトリに対して申し付けた事になっていた。
傍らにサリエルが居たのは単なるいつもの風景であり彼女はこの件にはもう関与してない、厳しい言い方をするなら、サリエルは火曜日の夜に店員に対する購入交渉に失敗した時点でこの件に関しては既に戦力外……そういう認識で居た。
とどのつまり、エレーヌはサリエルやディミトリが今何をしているのかという事に、まるで気づいていなかった。
馬車は再び戦勝記念通りを、聖ヴァランティーヌ学院目指して走り出していた。
エレーヌは考えた。とにかく、アリーセが早くあのミトンを手にしてしまえばいいのだ。そうすればディミトリが何をしていようが、店が盗賊に襲われようがもう関係無い。
エレーヌは学院をずる休みする覚悟を決め、密かに神に祈る。
「お待ちになって。私、少々眩暈がして参りましたわ……どうしましょう、私、どうしてこう病弱なのかしら……もうすぐ授業が始まってしまいますのに……」
エレーヌは十七年間一度も発熱した事がなく虫歯一本無い健康優良児である。
「サリエル、貴女はこのまま学校に行って、私の分も授業を受けて来て下さるかしら? 私は申し訳ないけれど、ダニエル先生の所に行って来ますわ」




