マッチ売りの少女アリーセ 第六話
気が気ではなかった。授業を受けていてもエレーヌはうさぎミトンの事を考えていた。あのミトンがもし泥棒に盗まれたらどうしよう……
あんな素敵なミトンだ、泥棒が見つけたら間違いなく持って行く。エレーヌはそう考えていた。
そして午後。どこへも寄らず馬車で帰宅したエレーヌは、今日も言った。
「私は写真の現像を致します。私の区画は暫く立ち入り禁止ですわよ」
大きな帽子に黒髪黒髭の男、自称庭師見習いのナッシュが伯爵屋敷の通用口から飛び出して行ったのはその数分後の事である。
◇◇◇◇◇
エレーヌは最初はこの仕事をトマにも頼もうと思い、先程帰宅した時に門番をしていたエドモンに尋ねたのだが、トマは今朝からディミトリの用事で出掛けているという。それで変装して自分で働く事になった。
ナッシュにはあまり知り合いが居ない。全く居ない訳ではないが数が少ない。ナッシュはまず、蒸気自動車の整備と保管を依頼している自動車屋を訪ねる。
「ようナッシュ、車を出すのか?」
「いや、今日はちょっと頼みがあるんだ、妙な頼みで申し訳無ェんだが」
ナッシュは自動車工達を集めて説明する。
「赤い木綿のスカーフを被った十二、三歳の娘だ、身長は百四十センチメートルより少し低いくらい、名前はアリーセ、髪は濃い赤毛でそばかすは多いし手は荒れているが、なかなか可愛い子だよ。たばこの立ち売りをしていて真面目で正義感が強いんだ」
「お前相変わらず嫌に金持ってるな……ヤバい金じゃないんだろうな? 本当に」
「おいおい、俺がそんな男に見えるかい、とにかくこの金でその子からたばこや喫煙具を買ってくれるだけでいいんだ、人助け! 人助けだから! な?」
ナッシュは鍛冶屋通りの居酒屋『鉄と炎の合間』にも向かう。そこでいくらか顔見知りになっている祖父と孫のコンビの店員と、二、三度見た程度の常連にも声を掛ける。
「絶対に俺の名前は出さないでくれ、それだけだ! そしたらこの金で買ったたばこやマッチはお前さん達の物だよ、な? 怪しくなんかないだろ?」
「話が美味すぎて怪しいよ……」
ナッシュはさらに街の中心部の高級レストラン、バルタザールの店の裏口にも行ってみたのだが。
「随分久しぶりじゃねえかこの野郎。だがお前の相談は無理な話だ。うちの厨房では禁煙を徹底させているし、正規の料理長には煙草を吸わないという誓書を書かせているんだ。諦めな」
店のオーナーにして総料理長であるシンドラー・バルタザールに追い返されてしまった。
ナッシュはマナドゥの診療所にまで行った。
「私は煙草を吸わないし吸う予定もありません。貴方今度は一体何を企んでいるんです? 先日もクロヴィス先生やトマを巻き込んで何をしてらっしゃったんですか? ナッシュ君! 待ちなさい!」
そうしてナッシュはカトラスブルグの街を駆け回り、知っているだけの知り合いに会い、戦勝記念通りの辺りに居るアリーセという煙草売りから煙草を買うよう頼んで回った。
皆が皆金を受け取ってくれた訳ではなかったが、ナッシュは概ね満足し、午後五時頃には戦勝記念通りの『梟の森』の前にやって来ていた。
ショーウインドウには電燈とオイルランプが灯り、中の商品を華やかに、そして周辺の通りもぼんやりと照らしている。
うさぎのミトンは……問題無い。まだあった。
ナッシュはもっともらしく顎鬚を撫でながら考える。このミトンを狙っているのが自分やアリーセの他にも居るとは思わなかった。やはり一刻も早くこのミトンをアリーセの物にしたい。
或いは今買ってしまうのはどうか? 買ってしまってからどうにかしてアリーセに渡しては?
いや、それは何か違うような気がする。アリーセは正々堂々と勝たなくてはならないのだ、自分が買ってプレゼントするのではいけない。
第一自分は今ベルではない。この服装でも髭とかつらの変装を解けばエレーヌには戻れるかもしれないが、あの店員はベルだと思わなければこのミトンは売ってくれないだろう。
だけど……ベルの変装で来ればミトンは売ってもらえる。
一旦自分の物にすればそう、それを着けた所を写真に撮っておく事だって出来る。
その後でそうだ、気が変わった事にしてミトンを店に帰すというのはどうか?
そう考えたナッシュが踵を返した時。ちょうど、通りの向こうから、アリーセが、売り物の篭を抱えてこちらに歩いて来るのが見えた。
「お嬢ちゃん煙草売りだよな?」
「あっ、は、はい! 刻み煙草が何種類か、マッチやパイプ、掃除用のワイヤーもございます!」
ナッシュはアリーセに近づいて声を掛ける。
アリーセはショーウインドウに気を取られていて一瞬返事が遅れたが、すぐにきちんとナッシュの方を向いた。
「ちょっと見せてくれ、えーと……うん……」
ナッシュはアリーセの篭の煙草の包みを見るが、父オーギュストが好んでいた銘柄の物は無かった。ナッシュは知らなかったが、煙草にも裕福な愛煙家が好む高級品と庶民でも入手しやすい普及品があったのだ。
「じゃあこれを二袋、それにマッチを二箱、それに、えー、ああ、そのパイプも貰おうかな」
「はい、ありがとうございます!」
ナッシュは代金として紙幣を渡す。ナッシュには喫煙の習慣も経験も無かったが、その事とナッシュが煙草を買った事に関係性は無かった。
「景気はどうだい、お嬢ちゃん」
「最近はあまり良くなかったんですけど……今日はなんだかとってもたくさん売れるんです」
ナッシュは密かに唇を歪めて笑うが、アリーセは一生懸命お釣りを計算して小銭を揃えてたのでそれに気づかなかった。
「それは何よりだ、あー、親方も喜ぶんじゃないか」
「ええ、本当に! はい、お釣りです、ありがとうございました!」
ナッシュは受け取った商品をポケットに入れると、背中越しに手を振ってそのまま立ち去る。
良かった。友人達は約束通りアリーセから煙草を買ってくれたんだ。下手な小細工をしなくても大丈夫、もうあのミトンはアリーセの物になるだろう。ナッシュはそう思った。
◇◇◇◇◇
その夜。
エレーヌは髪を洗い、リビングでサリエルにその手入れをさせていた。
また上機嫌に戻っていたエレーヌは鼻歌混じりにサリエルに尋ねる。
「ねえサリエル。街中にその……例えば煙草などを籠に入れて売ってらっしゃる方々がいらっしゃるじゃない?」
「ええ。国王陛下は子供や老人の仕事であるようにとおっしゃっておられますけど、近年は大人の男性でもそういう仕事をされてる方がいらっしゃいますわ」
サリエルはいつも通り、自分の見識を交えて答える。
「どうしてですの?」
「力の要る仕事ではないですから、他の仕事が出来ない者がするべきだと。ですが近年は働き盛りの男性でも失業される方が多いのです」
「ふうん……それであの方達、お給料はどのくらいいただいているのかしら?」
「他の仕事ほど多くはないと思いますわ」
「でも煙草がたくさん売れたら、お金もたくさん貰えるのでしょう?」
「いいえ。そういう事は無いと思いますわ」
エレーヌは読んでいた雑誌をソファーに伏せる。
「どうしてですの? 商売なんですから、たくさん売れれば利益は多くなるのではなくて?」
「ですが、煙草や喫煙具……商品はあくまで元締めが用意していて、売り子の方はそれを売っているだけですから、いくら売れても御給金に変わりは無いのです」
エレーヌは急にサリエルの方に向き直る。エレーヌの髪を引っ張りそうになったサリエルは慌てて手を離す。サリエルが持っていたブラシは、エレーヌの髪に引っかかったままになってしまった。
「それはつまり、売れなくても給料は貰えるからという事?」
「いえ……あまり売れないと仕事を怠けていたと見做されて、御給金を下げられると思います」
「何よそれ! 理不尽じゃない! 売れても給料は増えず、売れないと下げられるの!?」
「それが世の中の理ですので……ですからお嬢様、庶民の間では買い物をする時にチップを差し上げる事がございますの」
エレーヌとて買い物をした事が無い訳ではない。
最近は蒸気自動車を即金でポンと買った。近くの居酒屋では現金と引き換えでないと酒を渡して貰えない。しかしそれはナッシュである時の事。
エレーヌは学院の購買部で鉛筆を一本買う時だってサリエルに買わせるのだ。先日街で服を買い漁った時も支払いの作業をするのはサリエルの仕事で、エレーヌはこれが欲しいと指で差すだけである。
「チップ……?」
「ええ。雇われて商品を売っている店員さんに、サービスへの感謝として差し上げる物ですわ。レストランでも給仕の方に差し上げますの」
「私そんな事した事無いわよ!?」
「あの、それはお嬢様は伯爵令嬢ですから、そういう場面ではお付きの者が渡しておりますので、今後ともお嬢様に対応していただく事はございませんわ」
エレーヌは投資や経営、それに伴う法務の事には年齢に見合わぬ知識を蓄えていた。政治や経済の大局を読む眼力も持ち合わせている。
しかし世の中にはエレーヌだから知らない事もたくさんあったのである。
煙草の立ち売りをしている少女の収入を増やしてやりたいと思ったら、煙草をただ買うだけでは駄目だという事をエレーヌは知らなかった。煙草を買い、チップを渡せと言わなくてはならなかったのだ。




