弁護士クロヴィス・クラピソン 第二十話
クロヴィスの説明によれば、この書類を向こうの国に送り、それが届くと向こうでの手続きが始まり、それが済んでからその現金と日記が送られて来るそうだ。
サリエルが説明を聞き、書類へのサインを終え、ビジネスセンターを後にしたのはエレーヌが去ってから十分後の事だった。
恐らくお嬢様はもう馬車で去ったのだろう……そう思ったサリエルは歩いて帰ろうと思ったのだが。馬車は一ブロック離れた街角に停まっている。
待っていてくれたのだろうか? サリエルはそう思い馬車の方へと歩いて行く。
サリエルが腕を引っ張られ、建物の狭間に連れ込まれたのはその時だった。
「ひっ……!」
「よう。久しぶりだなあ。まともに話すのは地下牢以来か?」
サリエルは叫び声を上げるのを抑える。そこに居たのはかつての仇敵、その正体は女主人、伯爵屋敷のトイレというトイレを掃除して回った怪人、大きな帽子に大きな上着の男、ナッシュだった。
「お……お嬢様……」
「冷てえなあ、俺は伯爵屋敷の近所に住む庭師見習いのナッシュだよ。忘れたのか? 俺達、屋敷の正面で剣で切り結んだ挙句、仮面大将軍に拳銃で追い回された仲じゃないか」
見れば傍らには、例のハンドルバー髭をつけ島国の紳士風に装ったトマも居る。
「トマ……それ、私が捨てた付け髭よね……以前私がつけてた……」
「すまんねサリエル君。私はナッシュ君には逆らえないんだ」
何となく、島国訛りの紳士を演じているトマ。
溜息をつくサリエルに、ナッシュは昔の兵隊が担いでいたような背嚢を突き付ける。サリエルは困惑しながらそれを受け取り、開く。
「お……お嬢様!? これは!」
「ナッシュだって言ってるだろうが、お前も早く準備しな!」
「私はまた馬車の所で待つよ」
トマは表通りの馬車の方へ行く。ナッシュはサリエルを引っ張り、入り組んだ建物の谷間のさらに奥へと連れて行く。
◇◇◇◇◇
「お嬢様……見ないでいただけませんか?」
「何でだよ」
「中身がお嬢様でも、殿方みたいな方に見られながらでは着替えにくいですわ」
「面倒くさいわね。じゃあ今だけ伯爵令嬢に戻るわよ。さっさとメイクなさい」
「あの……向こうを向いていて下さいませんか」
「嫌よ。見せなさい。それとも私には見せられないとでもおっしゃるの?」
「……お嬢様……私のメイク術をどうなさるおつもりですか」
「ど、どうって……何よ、何か文句でもあるの」
「私のメイク術を盗んで! 何に使われるおつもりですか!」
「な、何よ! だったらどうだと言うの!」
「いけません! 私はお嬢様に変態になって欲しくないのです!」
「うるさいわね! 私伯爵令嬢ですのよ! アンタの上司よ! やりなさい!」
◇◇◇◇◇
結局の所押し切られたサリエルは、ナッシュが用意したメイク道具を使い服を身に着け、少女歌劇団の男役トップスターのような耽美な黒髪の美青年、オーバン・オーブリーへと変身していた。
今日はさらしを巻く時間が無かったが、ゆったりしたケープのついたインバネスコートは上手くサリエルの体型を隠し切っている。
「凄いなやっぱり。全くサリエルには見えない。じゃあナッシュ君、私はこの馬車とこの包みを伯爵屋敷に返して来よう。後でまた」
トマはそう言って、エレーヌとサリエルの服が入った袋や日傘を乗せた馬車を操り、伯爵屋敷へと戻って行く。
「じゃあ俺達はこっちだ、オーバン、蒸気自動車の修理が終わっているのか見に行こうぜ」
ナッシュはそう言って往来の向こうを親指で指差す。
鍛冶屋通りにある自動車屋は、日曜日であるにも関わらず仕事をしていた。と言うより、昨日ナッシュが壊れた蒸気自動車を持ち込んでから、不眠不休でその修理と改造に励んでいた。
日曜日は休みたいという欲望も、自動車屋となると話は別である。この国の自動車狂の男達は自動車の事となると夜も休日も忘れて働く。
「ちょうどいい所に来たな! 今度は絶対に壊れねえ! サスペンションは水じゃなく油を入れた! 圧力弁も壊れるという概念が無い形状に変えたからな!」
「この車はこの国で一番、いや世界で一番の自動車だ!」
「時速五十キロメートルだって出るぜ!」
ナッシュはオーバンを乗せ、蒸気自動車をゆったりと走らせながら、高度に小型化され手首に巻けるようになった一般人にはとても手の出ない大変に高価な時計、『腕時計』を確認する。
「あの弁護士先生の約束は午後二時だ。今のうちに昼飯を食おうぜ。トマ……トーマスも戻って来るからな」
戦勝記念通りの途中でナッシュは車を止めた。島国風の、白身魚とジャガイモのフライを提供する屋台が、日曜日にも関わらず出ていたのだ。
「あの……私達二人の時も、この芝居を続けるんですか?」
「お前な、二人の時に出来ねえ事が皆の前で出来んのか? 今のうちにちゃんと慣れとけ」
屋台の周りにはベンチも置かれていて、他にも家族連れや友人連れが日曜日の昼食を簡単に済ませるのにここを利用していた。しかし誰もオーバンが人目を引く美青年である事以外には、何か気づいたような様子は無い。
「島国の飯は不味いって聞くけど、こいつはいけるな」
ナッシュは蒸気自動車に寄りかかったまま、白身魚のフライを頬張る。
同じようにしながらオーバンは密かに思う。エレーヌとこんな風に街角に並び、立ったまま物を食べる事など想像した事も無かったと。
自分はついにナッシュの変装を見抜けなかった。ポーラの指摘が無かったら今も無理だったと思う。
ナッシュは良く見れば雑な変装なのだが。エレーヌの姿で一番印象の強い薄い青灰色の狼のような瞳をぼさぼさの黒い前髪で隠され、代わりにもみあげから顎まで繋がった黒髭を印象付けられると、意外な程に解らない……
「それで……コホン。貴方は僕にこの姿で何をさせようというのです」
「何かスッキリしねえな。やりなおし」
「き、君は僕に何をさせようと言うんだい?」
ナッシュはオーバンに上着の内ポケットから三つに折りたたんだ、タイプライターで打たれた文書を取り出し、開いて見せる。
「なっ……!?」
オーバンは声を上げかける。どうにか人目を引かぬよう声を落として、オーバンはナッシュに急きかける。
「ナッシュ君、それはさすがにまずいんじゃないのか!? そういうのは犯罪行為の中でも一段高い場所にある、警察を本気にさせる種類の犯罪で……」
「おっ? さすがに住居不法侵入や窃盗に手を染めた悪党の言う事は違うな?」
ナッシュは歯を剥いて笑う。
「なあに、こいつは最後の手段さ、使わないで済ませられたらそれでいいんだ。オーバン。お前なら解るだろ? クロヴィスが相手にしている貴族って連中は、決して舐めてかかっちゃいけない相手だ。どんな小物に見えてもな。クロヴィスはいい男なんだがちょっと解ってねえ所がある……ああ、トーマスが来たぞ。おおい! トーマス、ここだ! お前も食うか!? フィッシュアンドチップスだってよ!」
 




