弁護士クロヴィス・クラピソン 第二十一話
弁護士のクロヴィス・クラピソンは一つの仕事を終えた所だった。
イヴァン・マンフレート・サルヴェール氏の遺産を、その息子セザールの代理人サリエル・サルヴェールが受け取る事を了承する、その意思を示した書類を郵便ポストに投函したのだ。
これで最悪、自分がカトラスブルグに戻って来れない事になっても、あの貴族の屋敷で扱き使われているメイドにはいくらかの財産が届くはずだ。
この件に関するクロヴィスの取り分は五十メルクにも満たず、カトラスブルグまでの出張費を含めると全くの赤字である。
しかしクロヴィスはその五十メルクを取るのにさえ躊躇を覚えていた。イヴァン氏が死にもの狂いで残した遺産はほんの八百メルク。そこから既に向こうの弁護士が三百メルク近く手数料を取っているのだ。
クロヴィスも法の正義を盲信している訳ではない。法の番人とて金がなければ飯も食えず、生きてはいけない。
結局の所、法の番人を駆り立てその力を利用する者の殆どは、金のある者だ。教養を得る事の出来ない貧しい者は、法を利用する方法すら知らない事も多い。
所詮世の中は金と力なのか。
クロヴィスは暗い気持ちを振り払うように、かぶりを振り、次の目的地に向かう。
裁判所も司法局も日曜日の静けさに包まれていた。しかし警察署は日曜日だからと言って休みにはならない。
クロヴィスはその警察署から出て来る。会う約束をしていた刑事には会えなかった。今日は出勤すると聞いていたのに、出勤していなかったのだ。
クロヴィスは溜息をつき、近くの司法局の建物を見る。司法局は日曜日は休みなので静まり返っているが、こちらの判事補とは何度も約束を確認している。
果たして。程なくして近くの珈琲店から出て来た背の低い禿げかかった中年男性は、約束の相手、ワーデン判事補だった。
「ワーデンさん。ここでお会い出来て良かった。今日はバイヤール男爵の館へ一緒に行って下さいますね?」
「ああ……勿論だよ、よく私に相談してくれたねえ。辻馬車は私の方で用意しておいた。時間が勿体ない。早速行こうじゃないか?」
ワーデン判事補の言う通り、辻馬車は既に彼等を待っていた。
「助かります。この街では平日でもなかなか辻馬車が来ない。日曜ともなると絶望的ですよ」
「この頃は景気がいいからね、市民でも辻馬車を利用する人が増えたのだろう」
◇◇◇◇◇
辻馬車はスリテア村へと続く道をゆっくりと進む。その間クロヴィスはワーデン判事補に、バイヤール家の馭者達の横暴とマルコ・シメオンの怪我及び、それによって彼の勤め先が負う不利益について熱心に語っていた。
「事情は解ったし、勿論協力は惜しまないけれどね、私に出来る事には限りがあるからね。勿論、男爵閣下にお会い出来たら、説得はしてみるつもりだが」
「それでは貴方に御出座しいただく甲斐が無い、男爵が拒否するなら有効な出頭命令を出して下さい、裁判所には引きずり出さないと気が済みません」
「欠席裁判になるなら、それはそれで良いのではないのかね? ああ、若い人は情熱的だねえ……」
クロヴィスは徐々にトーンダウンして行くワーデン判事補の態度に不満と不安を覚える。
ならばどうすればいいのか。マルコの為に街頭で募金活動でもしろと言うのか。そんなのは断じて違う。
悪を見過ごし、泣き寝入りをして無関係の人々の慈悲にすがる、そんな解決方法はあってはならないと、クロヴィスは考えている。
金は必ず、馭者達本人、又は彼等に業務をさせていた事業主であるパトリス・バイヤール男爵から取り立てなくてはならない。
スリテア村の中心通りは日曜日だという事を差し引いても、あまりにも静かだった。外を歩いている者は一人も居らず、戸も窓も全て閉まっている。
「旦那方、わたしゃすぐそこに親戚の家があってね、ちょっと挨拶をして来るから……帰りも乗りなさるだろう? 小一時間もしたら戻って来るから。万一戻って来なかったら呼びに来てくれ、ほら、そこの丘の上の家だ」
辻馬車の馭者がそう言って、少し離れた所にある一件の家を指差す。すると。今馬車を降りようとしていた判事補は、席に座り直す。
「君、それなら私も連れて行ってくれないか、厠を借りたい。判事補ともなるとね、道端で用を足す事も出来ないんだ」
「ははあ、不便ですねそりゃ。じゃあどうぞ、乗ってて下さい」
「すまんねクロヴィス君、済んだら戻って来るから」
そう言って判事補はすまなそうに目を逸らし、帽子を被り直して、その鍔でクロヴィスの視線を遮る。
クロヴィスは溜息をつく。そして考える。どうやら自分は罠の中に居るようだ。
酷い話だがここでこの判事に食い下がってもどうにもならないのだろう。
或いは自分も厠を借りると言って馬車に乗るべきか。そして気が変わったと言ってそのまま一緒にカトラスブルグに帰り、二度とこの村を訪れないようにするか。恐らくそれが、この場を無事に逃れる唯一の方法だろう。
しかしクロヴィスは虚空を見上げる。
「これ以上は御免だ。それが神の意志だというのなら、私は自分の正義を抱いて死ぬ」
クロヴィスはそう呟いて懐から煙草入れと巻紙を取り出し、慣れた仕草で巻紙の端を軽く舐め、紙巻き煙草を巻いて唇に挟むと、マッチで火をつける。
クロヴィスが口にした紙巻き煙草の先の火口から、一筋の紫煙が立ち昇り、微風に吹かれて揺らぐ。
―― ドンッ……!
銃声が鳴るほんの一瞬前にクロヴィスは動いていた。彼は煙草をつけて寛いでいるように見せつつ、神経を研ぎ澄ませ視界に入る世界の変化に集中していたのだ。
建物の二階の物陰からクロヴィスをライフルで狙っていた男は、クロヴィスが急に飛び退いたので慌てて照準を追わせ引き金を引いたが、弾丸はクロヴィスの頬を掠めるに留まった。
しかし待ち伏せしていた男が手にしていたのは新式のボルトアクションライフルだった。男はすぐさまレバーを引き次弾を装填する。
クロヴィスは建物の間の路地へ飛び込むが、男は慌てず、邪悪な笑みを浮かべ、クロヴィスが消えた路地にライフルを向け、照準を覗く。あの弁護士がそこに逃げ込むというのは、男達の計画のうちだった。そこには短銃やナイフで武装した仲間が待ち構えているのだ。
だからあの弁護士は慌てて、元の場所から出て来る。男はそれを待つ。
弁護士が出て来たらどうするのか。
今度は外さない……確実に……致命傷を狙う。
―― ドン! ドン!
路地から銃声がした。
あの弁護士は路地に待ち受けていた仲間達の方へ突っ込んだ挙句、彼等に撃たれたのだろうか?
それならば助かる……自分が撃たずに済んだ……男はそう思った。
このライフルであの弁護士を撃つ。それが吝かな訳では無い。しかし、それをすれば自分が罪に問われる事ぐらいは男も知っている。出来れば自分以外の誰かが撃ってくれた方が助かる……
しかし次の瞬間。路地から人影が飛び出して来た。
少し気を抜いていた男はすぐに引き金を引けなかったが、気を取り直し、ライフルを構え、引き金を引く……
―― ドンッ……!
「撃つなあああ!」
路地から飛び出した男は一人ではなかった。バイヤール家に仕える男が二人。威嚇射撃に慄き、路地裏から表通りに飛び出す……ライフル弾はそこへ飛来した。
「ぎゃあっ!?」
建物の二階の影から狙撃手が撃った弾は、飛び出した男の片方の左肩を撃ち抜いた。狙撃手はすぐに、自分が撃った相手が味方である事に気付き、青ざめる。
しかし真の恐怖はその後だった。路地から慌てて飛び出した男を追い、一人の男が現れる。あれは……狙撃手は慌ててライフルのボルトを引くが。
―― ドン! ドン!
路地から飛び出した三人目の男、自称カトラスブルグ郊外の庭師見習いのナッシュは、両手に持った二丁のダブルアクションレボルバーを硝煙が昇り立つ建物に向け、発砲した。
「ぐわあ!?」
放たれた銃弾の一方はライフルの銃身を掠めただけだったが、もう一方は狙撃手の右肩を撃ち抜いた。ボルトアクション式のライフルが、回転しながら弾け飛ぶ。
「……ひえっ!?」
次の瞬間ナッシュは銃を持ったままの右手で大きなキャスケット帽子を押さえ、慌てて元の路地に飛び込む。
「この野郎!」「また出やがった!」「ふざけんなあああ!」「行くぞ!」
「挟み撃ちにしろ!」「うおおお!」「殺せー!」「余所者をぶちのめせ!」
「行くぞほら!」「待てって!」「畜生め!」「バイヤールの為に!」
スリテア村の目抜き通りの、建物の影、納屋の戸、立ち木の茂み、樽の中から。わらわらと男達が飛び出して来たのだ。皆手に手に何かしらの武器を持っている。狩猟用の散弾銃、古めかしい短銃、時代掛かった幅広剣、近代的なフルーレ、一世代前の軍用ライフル、巨大なバトルアックスを持った者まで居る。
「生かしては帰さんぞ!!」
怒れるバイヤール家の家臣達は怒号を上げ、路地裏へと引き返したナッシュを追って行く。




