弁護士クロヴィス・クラピソン 第十九話
日曜日の午前。街は当たり前のように静まり返っていた。
長屋通りでは少し遅く起きた人々が、ゆっくりと教会に向かって歩く姿がちらほらとあるのみだった。
鍛冶屋通りには槌音が無い。工場も設計事務所も扉が閉まっており、機械も皆止まっている。
金融通りに至っては、まるで美しい廃墟のようだ。銀行や証券会社、不動産事務所が立ち並ぶ通りには、歩いている者さえ居ない。
商店も。レストランも。喫茶店も。皆休みだ。
そんな日曜日の静けさに包まれた街の中を、一台の不揃いな馬車が行く。
御者はごく普通の農夫のような恰好をした背の高い若者で、馬はありきたりの荷役用の低く丈夫な馬、四輪の台車は普段は藁でも積んでいるような粗末な物だった。
ところがそこに。鍔の広い派手な帽子を被り、濃紺地に金の装飾を施した華美なドレスをバチバチに決め、かなり濃い目の化粧をした伯爵令嬢……エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートが鎮座しているのだ。
後ろには側仕えのメイド、サリエルが控えていて……大きな日傘を持たされている。十一月の日差しに鍔の広い帽子。日傘など必要ないようにも見えるのだが。
やがて馬車は町の大聖堂の近くまでやって来る。
サリエルは気遅れしていた。伯爵令嬢がこんな馬車に乗っていては、街の人々の笑い者にならないだろうか? しかしそれは杞憂だった。日曜日の散歩を愉しむ人々は、珍奇な伯爵令嬢の姿など気にもしていない。
やがて馬車を操る若者、トマは馬を止め、ブレーキを引く。目的地についた。
ここがカトラスブルグで一番新しいホテル、事務支援サービス付きのビジネスセンターだ。
◇◇◇◇◇
全面ガラスの扉をくぐり、二人はホテルの一階の、フロントに併設されたビジネスセンターに入る。
徹底的に電化された広いホールには、たくさんの電灯がぶら下げられている。
しかし明々と照らされた、たくさんのデスクとソファから構成されたビジネスブースには殆ど人が居なかった。たまに居ても、ソファに転がって雑誌でも読んでいるような者ばかりだ。
エレーヌとサリエルはフロントの方へ向かう。そちらでは客とおぼしき五人ばかりの男が一人の女性スタッフを囲んでいる。
「辻馬車はまだかね。もう一時間も経つじゃないか」
「一時間くらい何だい、僕なんか昨日から荷物を待っているのに」
「模造紙が七枚要るんだよ、どうにかならないか」
客達はそれぞれに困り顔をしていたが、そのうちの一人の、どうやら西の彼方の新世界から来たらしい男は、薄ら笑いを浮かべて首を振っていた。
「この国にはモダンライフは早過ぎたようだねえ。新世界の設計士を呼び最新の電気設備で飾り立てたビジネスセンターも、それを運用するのが旧時代の人間では」
「嫌な男だな、君は」
客同士がそんな事を言い合う前で、スタッフの女性は電話機を手に固まっていた。恐らく交換手が先方を呼び出しているのだと思うが、なかなか出ないらしい。
エレーヌはそこにやって来た。
「ストーンハート伯爵家のエレーヌと申します。こちらにお泊りの、クラピソン弁護士にお取次ぎ願いますわ」
相手の様子に構わず、受話器を持つ女性スタッフに話し掛けるエレーヌ。
周りの男達が好奇の目を向ける。
一般に伯爵令嬢などというものは大きな屋敷の深窓の向こうに静かに佇んでいるものと思われている。なかなか、目の前で見る機会などは無いものだ。
成る程美しい。美しいがその化粧は濃過ぎではないだろうか。二十歳にもなっていないように見えるうら若き乙女に、そんな青白いチークや紅芋のようなルージュが本当に必要なのか。
気の毒なホテルの女性スタッフは一層狼狽する。男達だって先程から皆文句たらたらで自分の仕事を待っているというのに。辻馬車は二度電話をしたがまだ来ないし、百貨店も電話に出ない、郵便の日曜窓口も順番に仕事をしていると言うばかりだし、今日は出勤して来るはずの支配人も電話に出ない、そこにこの……ホテルの株式の十パーセントを所有する伯爵家の令嬢が来たのだ。
「た、ただ今お呼び致します」
女性スタッフは一旦受話器を置き、再び取り、内線での呼び出し操作をする。
「我々も待っているんだぞ」
男達が当然の不満を漏らす。しかしちょうどそこへ、クロヴィスは階段を降りてホールへとやって来た。
クロヴィスも日曜日であるにも関わらずスーツを着ていた。そこに他の男性客が呼び掛ける。
「エレベーターが呼んでも来なかったのだろう? 全くなっていないな」
「日曜日では仕方がない」
クロヴィスは苦笑いで答える。
この九階建てのホテルには電気エレベーターがついていて、平日は運転士の女性が操作し、呼び出しのあった階へと客を迎えに来るのだが。この女性も出勤していない。クロヴィスも今、七階から歩いて降りて来た。
このホテルは海の彼方の新興国にビジネスで負けないよう、彼らの合理的な考え方を取り入れ、さらに独自の工夫を施し、意匠的にも技術的にも世界最新のビジネスセンターであるようにとの願いを込めて建設された。
しかしそんな最新の技術も、深遠な理念も、カトラスブルグの人々の「日曜日は絶対休む」という鋼鉄の意志を挫く事は出来なかったのである。
とにかく、女性スタッフは一人で五人の男達の不満を聞くという仕事に戻り、男達は女性に不満を言う仕事に戻った。
クロヴィスはエレーヌとサリエルを自分の貸しデスクの方にいざなう。
「御電話をいただければ、こちらから御伺いしたのですが」
「当家に電話機はございませんわ。それに、この子の私事だそうですので」
エレーヌはサリエルにソファに座るよう顎で指示する。クロヴィスが向かいの席に座っても、エレーヌはサリエルの後ろに立ったままだった。
「あ、あの、お嬢様」
「構わないから始めなさい。持って来た書類を出せばいいじゃない。本当にぐずなんだから」
息をするように悪態をつくエレーヌに、サリエルは動揺する。女主人はどういうつもりなのか。普段のエレーヌは屋敷と学院以外の人間の前では猫を被っているのだが。
サリエルは書類を鞄から出しながら、クロヴィスをちらりと見る。案の定、クロヴィスはエレーヌの態度が気に入らないのか、微妙に眉を顰めている。
「市民籍と……納税証ですわ、納税証はお嬢様が使用人全員の分を管理して下さっていたのです」
「余計な事はおっしゃらなくて結構!」
サリエルが気を利かせて付け足した一言に、エレーヌが噛みつく。サリエルはまた動揺し、クロヴィスをちらりと見るが、クロヴィスも必要以上に気にしない事に決めたらしい。
「宜しい。ではこちらの書類にサインを」
「サリエル。その前に書類をよく確認なさい」
「は、はい……」
「……失礼致しました。この書類はサルヴェールさんに遺産を受け取る意志がある事を確認する為の物です」
クロヴィスの説明に、エレーヌは木で鼻をくくったような態度で冷笑する。
「ほーら危ない。良かったわねサリエル、私を連れて来て。その遠くの親戚か何かに遺産どころか負債があったら、それも相続させられるのだわ」
「遺産の内容はこの目録の通りです! ……現金四百六十メルクと日記五冊、負債になる要素はありません」
一瞬声を高めてしまった事を恥じるように、クロヴィスは眼鏡を抑える。
エレーヌは扇子で口元を隠しながら高笑いをする。
「ホーッホッホッホ! 凄いわサリエル貴女億万長者よ! 四百六十メルク! 私のドレスなら一着も買えませんけれど、貴女が着るようなお仕着せなら十着は買えるのではなくて? ホーッホッホッホ」
「お、お嬢様、お止め下さい」
さすがに慌てたサリエルが立ち上がって振り返ろうとすると。
「おだまり!」
――ぺしっ!
エレーヌは扇子でサリエルの眉間を叩く。たいして痛いという物ではないが、サリエルは癖で掌に顔を埋める。多少は痛がってみせないとエレーヌが喜ばないのだ。
「女性の顔を叩くのはやめなさい!」
クロヴィスが立ち上がり、小さいが鋭い声で言った。その表情は凍りつき、静かな怒りに燃えていた。
「フン。興味が失せましたわ……さっさと済ませてらっしゃい!」
エレーヌはそう憎々しげに言い捨て、さっさと踵を返して立ち去ってしまう。
「お嬢様!? あ、あの……クロヴィスさん、違うんです、これは何かの間違いですわ、あの……」
サリエルは立ち上がり、エレーヌを追うかこの場に残るか決めかね、おろおろと辺りを見回す。フロントの方でも五人の男達が唖然としてこちらの様子を見ていた。女性スタッフの方は何とか見て見ぬふりをしていた。
クロヴィスは深い溜息をつきながら椅子に掛け直す。
「私が何かいけなかったと思いますか? 先日お会いした時は……ここまでの方とは思わなかった!」
「違いますわ、私のせいなのです、お嬢様は普段はとても優しい方なのです、私達は姉妹のように育てられたのです、その……」
サリエルは憔悴しきっていた。一体何故こうなるのか? 昨日お嬢様はトマと共にこのクロヴィスと楽しそうに妙な自転車に乗っていたではないか。怪人の姿ではあったが、この弁護士とも早速友達になっていたのではないのか?
或いはクロヴィスもまた、あの怪人の正体がエレーヌであるとは知らないのか。ともかく、これではクロヴィスにとって、エレーヌの印象は最悪だろう。
お嬢様は何故こんな事をするのか。




