弁護士クロヴィス・クラピソン 第十八話
明けて日曜日。エレーヌもサリエルも学校は休みである。
伯爵屋敷の使用人達の勤務体系は一様ではない。例えばヘルダは日曜の午前は必ず休みである。他にも使用人の半分くらいが、この時間は休みとしている。彼等は概ね連れ立って教会に行く。
エレーヌも父オーギュストが居る時は必ず、居ない時は気が向けば同行するが、今朝はそうはせず、一階の家族用区画で聖典を数行朗読するに留める。
それからエレーヌは厨房の方へ行く。屋敷には正餐用の大ダイニングと伯爵家族用の小ダイニングがある。
エレーヌは普段は荘厳な大ダイニングを一人で使う事を好む。母クリスティーナは来客の時以外は小ダイニングを使うようにと言うのだが、エレーヌはあまりそうしない。
一方で日曜の朝の食事はダイニングには行かず、ごく簡易なものを自室で摂る事が多いのだが。
「おはよう。私にも朝食をいただけるかしら?」
「えっ……御嬢様!?」
この日のエレーヌは厨房の裏側にある使用人用のダイニングに予告なく乱入して来た。
ダイニングにはエドモンやジェフロワが教会に行く間、彼らの持ち場が無人にならないように残された見習い、トマやブルーノが居た。他にも数人のメイドと執事見習いが居る。
この日曜の朝食会は伯爵屋敷の若手達の親睦会として機能していた。各部門の責任者達が留守になるこの場面は、若手が羽根を伸ばすのにはうってつけだったのだ。
「た、ただ今用意致します」
ブルーノが慌ただしく席を立つ。
「申し訳ありませんお嬢様、お部屋にお持ち致しますわ」
「あの、サリエルは御一緒ではなかったのですか、まさかあの子、まだ寝てるのかしら」
他のメイドも慌てて席を立とうとするのを、エレーヌは手で制する。
「そのまま朝食を続けていらして。邪魔は致しませんわ」
その台詞を聞きトマは心中頭を抱える。二人の喧嘩はまだ続いているのか。普段であれば女主人の側には当然サリエルがついていて、日曜日の朝食は彼女がここに取りに来て、部屋に持って行くのだ。
そのサリエルが機能していないと、こんな事も起きるのか。トマは女主人を敬愛しているが、正直ここは使用人の為の憩いの場であり、気軽に来て貰っては困る。
そんなエレーヌがトマの隣に平然と座った所に。
「おはようございます皆様! 申し訳ありませんお嬢様、私寝坊をしてしまいました!」
滑り込む勢いで廊下を疾走して来て、この使用人用ダイニングに現れたのは、パジャマ姿のサリエルだった。
「随分楽な恰好だな……ヘルダに叱られるぞ」
出来れば平和にこの場を収めたいと思ったトマは、冗談めかしてそう言った。
サリエルは一瞬狼狽えたが、すぐに平然と、メイド用のお仕着せをきちんと着ている時と同じように背筋を伸ばし、澄まして答える。
「ただ今お嬢様の食事をお持ち致します」
「やめなさい。アンタが仕事をしたら他の皆も仕事をしてるような気分になりますわ。ここは日曜日の朝の食堂、そういう配慮が要りましてよ」
厨房へ行こうとしたサリエルを、エレーヌはそう言って窘める。
サリエルは一瞬反論し掛けるが、口をつぐむ。
ブルーノが軽く焙ったバゲットとサラダ、トマトのコンソメを持って戻って来る。サリエルはエレーヌの斜向かい、ブルーノの隣に着席していた。
数種類のチーズやカリカリに揚げたベーコンチップ、ゆで卵をこねたサラダなどは皆が好きに手に取れるよう、テーブルの真ん中にまとめてあった。
エレーヌはスライスされたバゲットを手に取り、温めて柔らかくしたバターをナイフで塗る。
サリエルはエレーヌの邪魔にならないよう、手を伸ばさずに待っていた。エレーヌはバゲットの上に、湯気の残るゆで卵のサラダを盛り付けると……上目遣いに、サリエルを睨みつける。
その異様な光景に。先程まで和やかに語らいながら、日曜日の朝の静けさを楽しんでいた伯爵屋敷の若手チームも凍りつく。
凶暴で誇り高く、決して人の手を受け入れない狼犬のようなエレーヌの視線と、そのような捕食者に森の中で出会い頭に遭遇してしまい硬直している牝鹿のようなサリエルの視線が交錯する。
エレーヌの手はサリエルに向かって伸びていた。その指先に挟まれているのは、たった今エレーヌが盛り付けた、まだ温かいゆで卵サラダが載ったバゲットサンドである。
牝鹿を見つめる狼犬のような視線を受けながら、サリエルは青ざめ、震える手を前に伸ばす。
「ありがとう……ございます……」
サリエルの唇から、震える言葉が漏れる。
メイド達は青ざめていた。こんな光景は想像だにした事が無かったのだ。執事見習いも息を飲む。これは有り得ない出来事だと思ったからだ。
ブルーノには良く解らなかった。何故お嬢様はこんなに殺気立っているのか? サリエルは何に怯えているのか?
トマは庭師なので本来屋敷の中の事には疎いのだが、最近何度か女主人ともサリエルとも行動を共にする事があり、二人の性格については少し知っている。だから驚愕せざるを得なかった。
あのエレーヌが。サリエルの為にサンドイッチを作ったのだ。
サリエルは受け取ったサンドイッチを自分の手元に引き寄せる。額に冷や汗が浮かぶ。手の震えが止まらない。眩暈がする。しかし……状況を確認しない訳には行かない。サリエルは必死で視線をサンドイッチから女主人へと移す。
そしてエレーヌの表情が視界の片隅に映った瞬間、サリエルは慌てて視線をサンドイッチに戻す。見ている。エレーヌが獲物を狙い今にも食いついて喉笛を掻き切らんとしている狼犬の視線で、自分を見ている。
「い……いただきます……」
サリエルの唇から、自分のものではない声が漏れる。
狼犬はまだ獲物を見つめていた。牝鹿が草を食み、その草が牝鹿の血肉となるのを待つかのように。
よく考えれば盛り付けただけだ。ゆで卵を潰してマヨネースとバジルで和えたのもバゲットをスライスしてトーストしたのもブルーノであり、エレーヌは盛り付けただけなのだが。それでもこれは、エレーヌがサリエルの為に作ったサンドイッチと言える。
サリエルはその、彼女にとっては世界一質量が大きいサンドイッチを見つめる。これをどうするのか。端の方を小さく噛むのか。一度皿に置いてナイフで一口大にカットするのか。
エレーヌは尚も、理性を持った肉食獣の目で、サリエルを凝視していた。
サリエルは覚悟を決めて極限まで大口を開け、思い切りそのサンドイッチにかぶりつく。真冬の凍土の雪の中からキャベツを見つけた牝鹿のように、豪快にそれを噛みちぎる。
美味しい。美味しくないわけがない。朝の栄養に飢えた体に、敏感になっている嗅覚に、ゆで卵とマヨネーズとバジルのシンプルで食べ応えのある味わいが、程よい半熟の卵黄とバターの香りが、口の中、胃袋、鼻腔に広がる。味覚が、嗅覚が、多幸感を奪い合い、引き立て合い……記憶の片隅に残る小さな不幸せを怒涛のように押し流して行く。
エレーヌはまだ獲物を狙う狼犬の瞳でサリエルを凝視していた。サリエルは一心不乱にサンドイッチを貪っていた。どうせこの後で狼犬に喰い殺されるなら今はこのキャベツを存分に味わおうと決めた牝鹿のように。
「食べたら出掛けますわよ」
エレーヌはそう言ってようやくサリエルから視線を外し、別のバゲットを取って、ナイフで生クリームをたっぷり塗り始める。
誰に言っているのだろうと思ったトマは年の為横目でエレーヌを見るが、どうやら自分ではなさそうだった。その事を確認した上でトマは口を開く。
「お嬢様、馬車は昼まで戻りませんが……」
伯爵家の馬車は内に外に十人余り、使用人達を満載して教会に行っている。
「まあ。当家には伯爵の娘を乗せる馬車もございませんのね……私、何と可哀相な伯爵令嬢なのかしら。外は寒く、乙女の足には無粋なビジネスセンターとやらへの道程は遠すぎますわ」
そう言ってエレーヌは今度は作りたてのブルーベリーサンドを差し出しながら、青灰色の三白眼でサリエルを睨みつける。
サリエルは硬直する。まだ食べている。まだゆで卵サンドを食べている途中である。だけどエレーヌが作ってくれたブルーベリーサンドを受け取らないのもいけないし、だからと言ってエレーヌが作ってくれたゆで卵サンドを丸呑みにするのもいけない。
「辻馬車を呼んで参ります」
既に食事を終えていたトマは立ち上がる。




