弁護士クロヴィス・クラピソン 第八話
サリエルは今起きた事を頭の中で整理しながら、ストーンハート屋敷への帰り道を急ぐ。
あの少年……マルコは気の毒だった。道を歩いていただけであんな大怪我を負うなんて。その場にクラピソンのような人物が居た事は不幸中の幸いだった。
クラピソンは気骨のある人物だと思う。横柄で乱暴なバイヤール家の御者達を圧倒する姿にも驚いた。見た目は背が高いものの、どちらかと言えば学者のような線の細い男なのに。
フーリエ先生の診療所が近かったのも幸いだ。フーリエ先生は不在だったが、マナドゥ先生が居たので問題はなかった。むしろああいう力の要る外科手術なら若いマナドゥ先生で良かったのかもしれない。
それとは別に。クラピソンは弁護士で、親戚の誰かの相続問題の為に、ストーンハート屋敷に仕えるサルヴェール姓の人間を捜していたという。まあそれはどうやら自分に違いない。
しかし。サリエルの家は親戚とは疎遠だったのだ。だから両親が戦争で亡くなっても、サリエルは誰にも引き取ってもらえなかった。それでストーンハート伯爵が御慈悲を下さったのだ。サリエルはそう考えていた。
クラピソンが言っていた事も全くピンと来ない。会った事も無い祖父の名前がイヴァン・マンフレート・サルヴェールである事はどこかで聞いた事がある気がしたが……父の名前は単にセザール・サルヴェールだと思っていた。
しかし父が生きていたのは自分が六歳までの事。幼いサリエルにはミドルネームの事まで説明しなかったのかもしれない。
◇◇◇◇◇
サリエルが戻ると、屋敷の門前にはトマが居て門柱のペンキ塗りをしていた。ポーラも居る。メイドのお仕着せをきちんと着て、門前を箒で掃いている。
「ただいま戻りました。どうしたのポーラ? もしかして私の代わりに掃除をするように言われたの?」
サリエルの記憶の中では、ポーラはこの時間は非番のはずだった。もしかして自分の帰りが遅かったから、ポーラにしわ寄せが行ってしまったのだろうか。
「いいえ、私も何かの役に立ちたいだけです!」
「そう……さっき少し雪が降って来たでしょう。無理はしないでね」
サリエルは優しくそう言って、トマにも会釈すると、屋敷の方へと歩いて行く。
ポーラは、サリエルがロータリーの方へ歩き始めると、音を立てないように気をつけながら、屋敷の二階の窓に向かって、ジェスチャーをする。
まず箒を両手で広く持って高く掲げ、それを左右に揺らしてから、箒を逆さにして地面に立てそれを軸にして地面を二周し、それから片膝をついて箒をライフルのように構え、射撃をしたようにそれを跳ねさせる。
そして地面に箒を置いたまま立ち上がり、両手で大きな輪を作った。
「私、次の仕事に行って来ます!」
それからポーラは箒を門番用の納戸に立て掛けると、ぱたぱたと屋敷の裏庭の方に走って行った。
トマはその一部始終を見ていたが、最後には軽く吹き出してしまった。
ポーラは侮れない。相手がお嬢様でもぐいぐい行くしお嬢様も悪い気はしていないようだ。先日は何かの折にお嬢様を窮地から救いだしたとも聞く。
「たいしたもんだな」
トマはそう呟きながらペンキ塗りを急ぐ。塗り終わる前にまた降って来たら困る。
「ただいま戻りました」
サリエルは屋敷の玄関ホールで、通り掛かったディミトリにもう一度そう言った。
「おかえり、サリエル」
「あの、お嬢様はお部屋ですか?」
「いや、お部屋には。少し前に厨房の方へ行かれたようだけれども」
「厨房……ですか」
エレーヌが料理人に文句を言う事以外で厨房に行くのは珍しい。
サリエルは軽い溜息を漏らす。自分は馬車の中で暴言を吐いてしまった事を謝罪しなくてはならない。だけどその為にお嬢様の様子が知りたい。
謝罪の仕方にも色々あるのだ。
下手をするとエレーヌの方では怒った事を忘れていたという場合もある。そんな時に謝罪をすると無駄に怒りを蒸し返してしまう事になる。そういう時は謝るより自分も忘れる方がいい。
単に不機嫌な場合などには、謝罪より気晴らしをして差し上げる方が効果的だ。生まれたての仔牛とか、威張って歩く雄鶏とか、手持ちの芸を披露するのもいい。
勿論本気でお恨みあそばされている時にはそんなのは駄目だ。その時は思う存分怒っていただくのが良い。気が済むまで暴れていただいてから誠心誠意謝る、これに尽きる。
八つ当たりでお怒りになられてる場合は、寄り添って優しくするのがいい。近くに居て何でもして差しあげるのだ。最初は苛立っていても、だんだん大人しくなって行く。そんな様子をサリエルは密かに妹みたいで可愛いと感じている。
サリエルはとりあえず自室に戻りお仕着せに着替える。これも重要だ。諍いを起こした時の服では無い服に着替えたのだ。
それからサリエルは鏡を見て、自分のいくつかの表情を確認する。普段の顔。笑う時の顔。驚いた時の顔。泣きそうな時の顔。大丈夫。余計な色はついてない。
自分の方は整った。後はエレーヌの様子を見て対策を立てるだけだ。しかしその前にサリエルは、エレーヌに頼まれていた買い物の品を、エレーヌの部屋に置いて来ようと思い立つ。
サリエルは自分の部屋を出る。エレーヌの区画の入り口の扉はすぐ隣だ。
それを開ければホール、その次が控えの間、次の間……
そしてエレーヌのリビング。サリエルは扉を開ける。
「あ」
「あ」
エレーヌはリビングの扉を開けてすぐの所に居た。リビングの入り口には何故か配膳用のワゴンがあり、お茶の用意のような物が載っている。
二人は数秒間硬直していた。
先に再起動したのはエレーヌだった。つんと澄まして胸を反らし、エレーヌは言った。
「あら……随分遅かったわね。買い物は済みましたの?」
サリエルは完全に不意を突かれていた。ディミトリの言葉を信じ、エレーヌはここには居ないと思っていたのだ。
その為サリエルは、全くデータがないまま手探りでエレーヌに対峙する事になってしまった。
「申し訳ありません。マグネシウムと硝酸カリウム、それに『小豆餡入りブリオッシュの顔を持つ男とウイルス男』を購入して参りました」
サリエルはまず薬局で購入した薬瓶をサイドテーブルに置き、さらに買って来た絵本を提示する。
エレーヌは。複雑な表情を浮かべた。
「『小豆餡入りブリオッシュの顔を持つ男とウイルス男』は先月の新刊じゃない、私が頼んだのは『ストランド・マガジン』という外国の雑誌ですのよ……?」
サリエルのこめかみにたちまち冷や汗が浮かぶ。その通りだった。『小豆餡入りブリオッシュの顔を持つ男とウイルス男』はエレーヌに頼まれ他ならぬ自分が先月購入したではないか。何故忘れていたのか……
「申し訳ありません! 書店に戻り、取り替えて頂いて参ります!」
「お待ちなさい!」
お待ちなさい、と言っておいて、エレーヌの思考は止まる。
サリエルは足を止め、女主人の次の言葉を待っていた。
「……学校の宿題が先ですわ。本屋は明日になさい」
サリエルはその言葉に動揺を覚える。しかし勤めてそれを顔に出さないようにして答えた。
「かしこまりました……ですが……いえ、宿題ですが、今出ているのは外国語の文法と音楽の課題のみですので、お嬢様の分は御済みかと存じますわ」
普段エレーヌを苦しめている、高等数学や物理の宿題は今日は無い。外国語は二人とも問題無く、音楽はむしろエレーヌは得意だがサリエルはやや苦手である。
「ああ、そう……ではそのマグネシウムと硝酸カリウムを……いや、それは私自分で片付けますわ……」
エレーヌの視線が宙を泳ぐ。サリエルは気づかなかったが、ポーラは天井板の隙間から顔を出し、しきりにエレーヌにジェスチャーを送っていた。早くお茶にお誘い下さいお嬢様と。
しかしエレーヌは落ち着かない様子を見せるだけで、なかなかその先の言葉を絞り出せずに居た。
「あ、あの……」
その様子を、サリエルはやはり女主人は機嫌が悪いのだと受け取ってしまった。
「な、何よ」
「い、いいえ、何でも」
そしてここで、二人の悪い意味での阿吽の呼吸が出てしまった。口籠りながらもサリエルを引き留めていたのはエレーヌの方だったのに。サリエルはエレーヌが困っていると見るや、女主人を助けるべく、自分の方が口籠るふりをした。
エレーヌもまた、それに乗ってしまう。
「はっきりしないわね、何ですの! 言いたい事があれば言えばいいじゃない!」
二人が築いて来た長年の信頼関係がもたらした擦れ違いだった。
「申し訳ありません! 明日は土曜日ですので、書店は今行かないと次は月曜日になってしまいます、さすがに三日三晩も経ってしまっては交換も受け付けていただけないと思うのです、恐れ入りますが、私を今書店に向かわせてはいただけないでしょうか」
そう言って丁寧に頭を下げるサリエル。その姿が。エレーヌの余計な所についているスイッチを押してしまった。
「貴女、何故それを先程はおっしゃいませんでしたの!? そういう事なら最初からそう言えばいいじゃない! 私が物の道理も解らない我侭な伯爵令嬢だから言えなかったのかしら! それは悪うございましたわね!」
「お嬢様! 申し訳ありません、そのような事は決してありません、本を間違えて買って来たのは私なのですから、私の都合でお嬢様を煩わせる事は……」
「いいからとっとと行きなさい! これ以上時間を無駄にする事はなくてよ!」
ポーラが大慌てで天井裏から隠し通路を通りリビングの方へと降りて来た時には、サリエルの姿はもう無かった。
「お嬢様! 早くサリエルさんを追い掛けて下さい! どうして! どうしてたった一言、お菓子を作ったから一緒に食べましょうとおっしゃらないんですか!」
エレーヌのリビングに何故かある配膳用ワゴンのクロッシュの下には、世にも珍しいエレーヌの手製のお菓子が隠されていた。フルーツや生クリームをパンで挟んだシンプルな物だが、エレーヌがこんな物を作る事は数年に一度しか無い。
お茶の用意も。ポーラに強硬に迫られ、渋々、エレーヌが手ずから整えた物だった。
エレーヌはポーラには、サリエルと喧嘩をしてしまった事、悪いのは自分だという事、何とかして仲直りがしたいという事を、極めて正直に話してしまった。
そこでポーラが提案したのが、女子ならば誰もが心安らぐはずというスイーツ作戦と、自分がサリエルの様子を調べて事前にエレーヌに伝えるという約束である。
実際にポーラはサリエルの様子を見て、それをエレーヌに伝えた。あとはエレーヌがただ一言言っていれば、作戦は成功していたはずだった。
「無理よポーラ! 私にも出来ない事がございますのよ! お菓子を作ったから食べましょうなんて、それこそサリエルが聞いたら卒倒しますわ! 出来ません……出来ませんわー!!」
エレーヌはソファに突っ伏し、転げまわって駄々をこねる。
「仲直りがしたいんでしょう? お嬢様の方からサリエルさんを怒らせてしまったのでしょう? エレーヌ様! エレーヌ様はお姉様でしょう! しっかりなさって下さい!」
「無理ですわ! 私には言えませんわ……ポーラ……私どうしたら宜しいの……」
慟哭するエレーヌから目を離し、ポーラは溜息をつき窓の外を見る。また少し、雪がちらつき始めていた。




