弁護士クロヴィス・クラピソン 第九話
翌日。
伯爵屋敷の馬車は女主人と側仕えのメイドを、聖ヴァランティーヌ学院の土曜日の授業に送り届ける為、屋敷のロータリーに待機していた。
ロータリーでは今日も正門番をしているトマが掃き掃除をしている。
エレーヌはいつものように予定の時刻から五分ほど遅れて玄関から出て来た。その後ろには二人分の鞄を持ったサリエルも居る……いつもの光景だ。
二人が玄関から出た後に、玄関の物陰から、小さなポーラが顔を覗かせる。ポーラの通う義務教育の小学校は土曜日は授業が無い。
エレーヌは無言で馬車に乗り込む。その後を追うサリエルも、黙って馬車に乗る。
一見、いつも通りの二人。エレーヌは馴れ合いよりは程好い緊張感を好むし、サリエルはひたすらエレーヌの調子に合わせる伴奏者である事を好む。
だけど二人の間に漂う妙な緊張感は、柱の影のポーラからも、門番のトマからもはっきりと感じ取れた。
やがて、馬車は滑るように走り出して行く。
トマとポーラはお互いの姿に気づいていた。トマは正門番の仕事をしているので、ポーラの方がトマの元へ駆けて行く。
「トマさん、お嬢様とサリエルさん、まだ仲直りしてないんでしょうか?」
「うーん……俺や親方は庭師だから、普段の二人の様子を知らないんだよな。そこは近くで二人を見てる君らメイドの方が詳しいと思うんだけど」
トマはポーラの問い掛けに、一つ前置きをしてから答える。
「エドモンさんが言うには、あれだけ仲のいい二人も年に一度くらいは仲違いをするんだけど、二人とも半年くらいすると前回の喧嘩を忘れてしまうんだって」
ポーラは馬車を見送りながら思った。それでお嬢様は初めてサリエルさんと喧嘩したと思い込む程に落ち込んでいるのかと。
馬車はいつも通り。屋敷の前の道をまずは長屋通りへと向かう。
向い合せ六人乗りの馬車の中、エレーヌはいつも後部座席の奥側の席に、サリエルは前部座席の手前側の席に座る。
エレーヌは先月の、本人曰く「少しおかしくなっていた時期」を除けば、広いパーソナルスペースがある事を好む。最側近のサリエルであっても不用意に近づくと突き飛ばされる。
つまり、馬車の中でも両者が一番離れた席に座るのは、いつもの事である。
さて。エレーヌは馬車が走り出して程なく、懐のポケットから一通の便箋を取り出し、前置きもなく音読し始める。
「前略。マンフレート・ザルバーの代理人、アダム・フンメルが照会する。マンフレート・イワン・ザルバー氏の死去と、氏の遺産贈与の希望を、氏の縁者、ツェーザル・マンフレート・ザルバー氏に伝えられたし……河の向こうのお国のからの手紙ね。これをレアルのクロヴィス・クラピソンという弁護士が受け取り、伯爵屋敷へやって来たわ。昨日の昼間の事よ」
エレーヌはそう言って手を伸ばし、便箋の一枚をサリエルに渡す。
サリエルは密かに息を飲む。エレーヌの口からクロヴィス・クラピソンという名前が出て来るとは思っていなかったのである。
便箋の方はエレーヌの言う通り隣国からの物で、隣国の言語で書かれていた。ザルバーはこちらではサルヴェール、ツェーザルはセザールで、これは確かにサリエルの亡き父の事を示しているように見える。
サリエルが覚えている祖父の名前はイヴァン・マンフレート・サルヴェールだったが、祖父は隣の国で暮らしていた。名乗りが違うのは仕方が無いのだろう。
「こっちがクラピソンさんから、今の貴女の保護者……私の父宛という事になるわね……それに宛てた手紙。何故この依頼を受けたか、どうやって貴女に辿り着いたか書いてあるわ」
サリエルが前の便箋を確認し終えるのを見て、エレーヌはその便箋もサリエルに渡す。
エレーヌが言う通り、その手紙はあくまで、セザールの娘の今の保護者である不特定の誰かに宛てて書かれた手紙だった。サリエル宛ての私文書ではない。
内容もごく単純な話だ。サリエルが遺産を受け取る事を許可し、協力するよう求める物である。
サリエルはクラピソンからの手紙の方を読んでいた。
馬車が長屋通りを走り抜けて行く。
「お手数をお掛けして申し訳ありません、お嬢様」
手紙を読み終えたサリエルは、そう言って小さな溜息をついた。
馬車はいつも通りゆっくりと道を行く。鍛冶屋通りを、金融通りの方へと。
「それで終わり?」
「えっ……」
「その弁護士に御会いしてみるのでしょう?」
エレーヌはそれだけ言って口篭る。
基本的にサリエルに非番の日は無い。一方、エレーヌは厳しいが、休みに関しては欲しいと言えばくれる女主人である。
私用で弁護士に会いに行くのなら、エレーヌに言って休みを貰うべきだろう。
もしくは、保護者として伯爵の代理人であるエレーヌにも一緒に会って貰うよう頼むという手もある。経験豊富なディミトリも同席して貰えれば尚心強いだろう。
とにかく、この件に関して、サリエルからエレーヌに御願いする事はたくさんあると思うのだが。
「あの、大丈夫ですわ、お嬢様の手を煩わせる事はございませんから」
サリエルの方は、この話をそこまで大袈裟に考えていなかった。サリエルの祖父は決して資産家などではなかったし、父セザールは三男だったと聞く。
遺産相続と言っても、辞退する書類にサインをして終わりだろうと。
馬車は金融通りをゆっくりと駆け抜け、戦勝記念通りに差し掛かる。
その間、エレーヌは無言で窓の外を眺めていた。
サリエルは時折、エレーヌの方に目を向けつつも、真っ直ぐに座り目を伏せて過ごしていた。
サリエルの心が揺らぐ。今のはお嬢様に失礼だったんだろうか。折角何か手伝おうかとおっしゃっていただけたのに、それを断ったのでは、この前の諍いの延長戦と受け取られていないだろうか。
恐らく、今は自分が何か言わないといけないのだが。何を言えばいいのか……
そう言えば。お嬢様に報告しそびれていた事があるではないか。
「あの、私、クラピソンさんには一度御会いしておりまして……偶然なのですが」
エレーヌは顔を窓の外に向けたまま、視線だけサリエルに向ける。
交通整理の警官の指示により、馬車は戦勝記念通りの途中で一度停止する。
「その馬車はそのまま行ってしまいましたので、私、その場に居合わせた殿方と一緒に、その少年をフーリエ先生の診療所へ連れて行ったのです。その後で少しお話をしておりましたら、その殿方がクラピソンさんで、ストーンハート家に仕えるサルヴェール姓の人物を捜しておられたと」
サリエルはバイヤール家の事と、その馬車の御者達との揉め事の事を省き、事故と救急搬送の事、その時の紳士が偶然そのクラピソンであったという事だけを、エレーヌに説明した。
バイヤール家の御者の事や、弁護士クラピソンが新たにバイヤール家との訴訟を抱え込もうとしているという事は、わざわざ女主人に伝えるまでもないと考えていたのである。
交通整理の警官が大通りに合流しようとする流れを止め、大通りを走る馬車や自動車に、進めの合図を送る。
ストーンハート家の御者も、ゆっくりと馬車を発車させる。
「そう……」
サリエルの話を聞き終わると、エレーヌはそれだけ言って視線を窓の外に戻す。
暫くの間、二人は無言だった。無言ではあったが、サリエルの顔色は少しずつ悪くなって行っていた。サリエルは思う。エレーヌが「そう……」と言った後には、大概良くない事が起こる、と。




