第5話 フェンリルの乳母
魔王は、生まれたばかりの赤子をそっと抱き上げた。
「……女の子か。」
小さな寝息。
温かな体温。
その命だけが、愛する女性がこの世に残してくれた宝物だった。
娘の亡骸を優しく抱きかかえ、魔王は静かに目を閉じる。
「約束は守る。」
その一言だけを残し、魔王は村を後にした。
帰る場所はただ一つ。
魔王城だった。
巨大な城門が開く。
「魔王様がお戻りになられたぞ!」
四天王が一斉に駆け寄った。
しかし、その手には剣ではなく、小さな赤子が抱かれている。
「…………。」
誰も声を出せなかった。
「ま、魔王様……。」
「その子は……。」
魔王は静かに答える。
「我の娘だ。」
城内が凍りついた。
四天王は互いの顔を見合わせる。
「む、娘?」
「魔王様に、お子が?」
「人間の……赤子?」
魔王はゆっくりとうなずいた。
「母は亡くなった。」
それだけで十分だった。
四天王は事情を察し、深く頭を下げる。
「……申し訳ございません。」
魔王は娘を見つめた。
「さて……困った。」
「何がでしょう。」
「育て方が全く分からぬ。」
「…………。」
数千年生きる魔王。
竜王を倒し、神族と戦い、世界最強と恐れられた男。
そんな男が、本気で困っていた。
「腹が減っているのか?」
赤子は泣く。
「眠いのか?」
さらに泣く。
「魔力を流せば……。」
「魔王様!」
四天王が慌てて止めた。
「赤ちゃんに魔力を流したら危険です!」
「そ、そうなのか。」
魔王は真顔だった。
本当に知らないのである。
「誰か知っている者はおらぬか。」
その時、一人の女性が前へ出た。
銀色の髪。
鋭い金色の瞳。
四天王の一人にして、魔獣軍団を率いる将。
フェンリルだった。
「魔王様。」
「うむ。」
「私ども魔獣は、子が生まれますと、まず母乳を飲ませます。」
「母乳?」
「はい。」
魔王は少し考える。
「……お前、乳は出るのか?」
フェンリルは一瞬だけきょとんとした。
「はい。」
「まだ子育て中ですので。」
「私の子も、先日生まれたばかりでございます。」
魔王は立ち上がった。
「では頼む。」
「我の娘も一緒に育ててくれ。」
フェンリルは胸に手を当て、深く頭を下げた。
「はい。」
「かしこまりました。」
魔王は赤子を慎重にフェンリルへ渡す。
フェンリルはまるで我が子を抱くように優しく受け取った。
「怖がらなくて大丈夫ですよ。」
赤子は泣き止み、小さな目を開ける。
フェンリルは柔らかく微笑んだ。
「今日から、あなたも私の子と姉妹ですね。」
奥の部屋では、生まれたばかりの小さなフェンリルの子が眠っている。
赤子はその隣へ寝かされる。
フェンリルは二人を交互に抱き上げ、優しく乳を飲ませ始めた。
ごく、ごく、ごく……。
夢中になって飲む女の子を見て、フェンリルは思わず笑う。
「元気な子ですね。」
魔王はその様子を、少し離れた場所から静かに見守っていた。
世界を恐怖に陥れた魔王が、ただ娘の無事を願う父親の顔になっていた。
「……ありがとう、フェンリル。」
「光栄にございます。」
その頃、王国では。
「勇者一行が国境を越えた!」
「魔王討伐軍が各地を制圧!」
「一か月もすれば魔王城へ到達します!」
戦火は、刻一刻と魔王城へ近づいていた。
魔王は娘の寝顔を見つめながら、小さくつぶやく。
「あと少しだけだ。」
「あと少しだけ、平和な時間を過ごさせてやりたい。」
その願いは、やがて六十時間に及ぶ壮絶な決戦へとつながっていく。




