第3話 魔王が恋をした日
・・・約1年前・・・
「魔王様、本日の侵攻先はこちらになります。」
玉座の間で、四天王の一人が巨大な地図を広げた。
人間の王国。
エルフの森。
ドワーフの鉱山。
次に攻めるべき場所が赤い印で示されている。
魔王は腕を組み、静かに地図を見つめた。
「……中止だ。」
「え?」
四天王全員が顔を見合わせた。
「本日の侵攻は取りやめる。」
「し、しかし魔王様!」
「人間どもは今こそ好機です!」
魔王は立ち上がると、黒いマントを翻した。
「今日は休戦だ。」
そう言い残し、一人で城を出て行ってしまった。
「……最近の魔王様、おかしくないか?」
「毎月、人間界へ行っているぞ。」
「まさか……。」
四天王たちは不安そうに顔を見合わせた。
その頃、人間の国境近く。
魔王は漆黒の鎧を脱ぎ、黒髪の青年へと姿を変えていた。
角も翼も消えている。
魔力も完全に隠している。
誰が見ても、少し大柄な旅人だった。
「今日はいるだろうか。」
小さな村へ入る。
市場では野菜が並び、子どもたちが走り回っている。
「いらっしゃい!」
元気な声が響いた。
果物屋の娘だった。
栗色の長い髪。
優しい笑顔。
どこにでもいる、ごく普通の人間の女性。
「今日はリンゴがおすすめですよ。」
「では、それを。」
魔王は金貨を一枚差し出した。
娘は目を丸くする。
「えっ、多すぎます!」
「釣りはいらない。」
「駄目です!」
娘は慌てて銀貨を数えて返そうとする。
「商売はちゃんとしないと。」
魔王は少し驚いた。
魔族なら迷わず受け取る。
人間は欲深いものだと思っていた。
しかし彼女は違った。
「旅人さん、お金は大事ですよ。」
笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間。
魔王の胸が、ドクンと鳴った。
(……何だ、この感覚は。)
数千年生きてきた。
竜王とも戦った。
神族とも戦った。
一度も感じたことのない鼓動だった。
「旅人さん?」
「あ……ああ。」
魔王は慌てて、袋いっぱいの沢山のリンゴを受け取る。
「ありがとうございました!」
娘は最後まで笑顔で手を振っていた。
魔王は振り返ることができなかった。
胸が苦しかったからだ。
翌日。
「また来たんですか?」
娘は笑った。
「リンゴを。」
「昨日買いましたよね?」
「……うむ。」
「食べるの早いですね。」
照れ笑いする娘。
魔王は無言だった。
本当はリンゴを買いに来たのではない。
彼女に会いに来たのだ。
それが自分でも分かっていた。
それから毎日。
魔王は人間界へ通った。
リンゴ。
パン。
花。
何でも理由をつけて店へ行く。
「旅人さんって変わってますね。」
「そうか?」
「毎日リンゴを買う人、初めて見ました。」
「好きなのだ。」
実際には、城にはリンゴが山積みになっていた。
四天王は首をかしげる。
「最近、食堂がリンゴだらけなんですが。」
「魔王様のお考えだ。気にするな。」
「いや、限度があるだろ。」
城中がリンゴだらけになっていた。
ある日。
突然、空が暗くなる。
巨大な魔獣が村へ現れた。
村人たちは悲鳴を上げ、逃げ惑う。
娘も転び、動けなくなった。
魔獣が牙を向ける。
その瞬間。
黒い影が前へ立った。
「下がれ。」
旅人の姿をした魔王だった。
魔獣は本能で震え上がる。
「グルル……。」
「失せろ。」
たった一言。
魔獣は悲鳴を上げ、森の奥へ逃げ去っていった。
娘は呆然と立ち尽くく。
「旅人さん……あなた、一体……。」
魔王は答えない。
「怪我はないか。」
「……はい。」
それだけ確認すると、背を向けて歩き出す。
「待って!」
娘が呼び止めた。
「お名前くらい教えてください!」
魔王は少しだけ立ち止まり、空を見上げた。
「……名前など、知らぬ方がいい。」
そう言い残し、夕焼けの中へ消えていった。
娘は、その背中をいつまでも見つめていた。
彼女はまだ知らない。
自分が恋をした相手が――
人類最大の敵、「魔王」その人であることを。




