第20話 初めての言葉
リリィがツェッペリン家へ来てから、数日が過ぎた。
家の中には、以前にはなかった笑い声が毎日のように響いている。
その中でも、一番変わったのは長女ルビーだった。
「リリィ、おいで。」
ルビーは今日もリリィを優しく抱き上げる。
「あぅ。」
リリィは嬉しそうに笑い、ルビーの胸へ頬を寄せた。
不思議なことに、リリィを抱いている間は体が驚くほど軽い。
息苦しさもない。
咳も出ない。
「本当に元気になる……。」
ルビーは幸せそうに微笑んだ。
そこへレッドがやってくる。
「ずるい!」
「またルビー姉ちゃんばっかり!」
「僕にも抱っこさせて!」
「やだ。」
ルビーはリリィを抱えたまま、くるりと身をかわす。
「少しだけ!」
「まだ駄目!」
二人は家の中を追いかけっこし始めた。
「待ってよ!」
「ふふっ、捕まえてみなさい。」
ルナリーナは苦笑する。
「こらこら!」
「転ばないように気を付けなさいよ!」
その時だった。
ルビーの腕の中で、リリィが小さく口を開いた。
「……る。」
家族全員の動きが止まる。
「え?」
ルビーは目を丸くした。
「今……しゃべった?」
リリィはにっこり笑う。
「あぅ。」
「気のせいかな?」
ルビーが首を傾げると、
「……るび。」
「…………。」
一瞬、家の中が静まり返った。
「えええええっ!?」
ルビーが飛び上がる。
「しゃべった!」
「今、ルビーって言った!」
ルナリーナも口を押さえる。
「本当に!?」
ブラウンも思わず立ち上がる。
「そんな馬鹿な……。」
ルビーは感激で目に涙を浮かべる。
「もう一回!」
「リリィ!」
リリィは首を傾げる。
「るび。」
「きゃあああ!」
ルビーは大喜びだった。
「父さん!」
レッドが慌てて前へ出る。
「僕も!」
「僕の名前も!」
リリィの前へしゃがみ込む。
「僕はレッド。」
胸を指差す。
「レッド。」
「レ・ッ・ド。」
家族全員が見守る。
リリィはレッドをじっと見つめ、
「……れっど。」
「言ったぁぁぁ!」
レッドは飛び跳ねた。
「リリィが僕の名前を言った!」
「すごい!」
「天才だ!」
ブラウンも思わず笑ってしまう。
「こんなに早く言葉を覚えるとは。」
家族は大騒ぎだった。
その時。
リリィが椅子につかまった。
よいしょ……
小さな足に力が入る。
「……あっ。」
ルナリーナが息をのむ。
リリィはゆっくり立ち上がった。
「立った……。」
レッドが目を輝かせる。
「立った!」
ルビーは両手を口に当てる。
「すごい……。」
リリィは一歩踏み出した。
よち。
もう一歩。
よち、よち。
「歩いた!」
「歩いた!」
「歩いたぁぁ!」
家族全員が歓声を上げる。
ブラウンまで目を細めて拍手していた。
「頑張れ!」
「あと少し!」
しかし。
三歩目で体がぐらりと傾く。
「あっ!」
倒れる――
その瞬間。
黒猫がすっと駆け寄った。
名前はリッチ。
リッチはリリィの体の横へ入り込み、ふわりと支える。
リリィは転ばずにすんだ。
「あぅ。」
そのままリッチへぎゅっと抱きつく。
「ニャ。」
リッチも優しく頭をすり寄せた。
その光景は、まるで一枚の絵画のように美しかった。
夕日が窓から差し込み、リリィとリッチを柔らかく照らす。
ルナリーナは思わず涙ぐむ。
「かわいい……。」
ルビーも目を潤ませる。
「神々しい……。」
レッドは満面の笑みを浮かべた。
「リッチ、お兄ちゃんみたい!」
ブラウンは静かに家族を見回した。
この家には、もう暗い空気はない。
病気や貧しさに苦しんでいた家族の中心には、小さな笑顔があった。
そして、その隣には一匹の黒猫。
「ありがとう。」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ただブラウンは、心からそう呟いていた。




