第9章 譲れない一線
「今は何も言うな。お前には、まだ早い話だ」
その声には、拒絶とも、庇護とも取れる、複雑な響きがあった。ほのかは、掴んだ手を離すことができなかった。
宵は、ほのかの手を振り払うことなく、しばらくその場に立ち尽くしていた。だが、やがて静かに、しかし確実にコートの裾を引き、ほのかの手をそっと外した。
「離れていろ」
そう言い残し、宵は、地面に横たわったまま動かない人々の方へと歩き出した。その足取りには、これまでにない、ある種の迷いのなさがあった。ほのかは、震える膝に力を入れて立ち上がり、その後を追った。
「待ってください、何をするつもりですか」
宵は答えなかった。倒れている人々のうち、瞳が虚ろに開いたまま、呼吸だけがかろうじて続いている一人の若い男性の前で、宵は膝をついた。懐から、これまでとは違う、小さな符を取り出す。先端に、独特の朱色の紋様が描かれた符だった。
「宵さん」
「お前には、まだこの意味はわからない」
宵の声は、感情を押し殺しているようでいて、どこか疲れきっているようにも聞こえた。
「深く澱に呑まれた人間は、意識を取り戻すことはない。身体は生きていても、中身はもう空っぽだ。……そして、空っぽになった器は、いずれまた新しい澱の依代になる。放っておけば、この男は、いずれ別の歪みを生む種になる」
「だからって……」
「わかっているさ、綺麗事じゃないことくらい」
宵は、朱色の符を、その男の胸の上にかざした。ほのかは、咄嗟にその腕を掴んだ。
「やめてください」
「どけ」
「嫌です」
ほのかは、自分でも驚くほど強い声で、そう言い切っていた。宵が、初めて苛立たしげにこちらを振り返る。
「お前に、何がわかる。今この場で対処しなければ、この男の身体を依代にして、また新しい歪みが生まれる。数日後か、数週間後か、それはわからない。だが、確実に、また誰かが犠牲になる。それを未然に防ぐための処置だ」
「それは……この人を、殺すってことですか」
「もう、生きてはいない」
宵の声は、感情の起伏を感じさせないほど平坦だった。だからこそ、その言葉の重さが、ほのかの胸に深く突き刺さった。
「意識も、記憶も、人格も、もう戻らない。残っているのは、ただの抜け殻だ。それを『生きている』と呼ぶのなら、俺たちの間で、その言葉の定義から話し合う必要がある」
「そんな……そんな簡単に、決めていいことじゃないです」
ほのかは、掴んだ腕に力を込めた。指先が震えていた。目の前で倒れている男性の顔を見る。年齢は、自分たちとそう変わらないだろう。誰かの息子で、もしかしたら誰かの恋人で、誰かの友人なのだろう。その人生の続きを、今この場で断ち切っていいはずがない。
「医学的には、まだ何もわかっていないはずです。意識が戻る可能性が、ゼロだと、誰が言い切れるんですか」
「俺が言い切る。これまで、何十人、何百人と、同じ状態の人間を見てきた。誰一人として、戻ってきたことはない」
「それでも……!」
ほのかの声は、震えながらも、決して退かなかった。
「万が一の可能性を、あなたが勝手に切り捨てていいはずがありません。もし、この人の家族が、ずっと帰りを待ち続けていたら。もし、いつか、ほんの少しでも、目を開ける瞬間が来るかもしれないとしたら。それを、誰かが勝手に、可能性ごと消してしまうなんて」
「感傷だ」
宵は、吐き捨てるように言った。「感傷で、これから起きる新たな被害を見過ごすのか。お前の言う『万が一』のために、また誰かが同じ目に遭ってもいいのか」
「万が一を切り捨てる社会に、私はしたくないです」
ほのかの言葉に、宵は一瞬、言葉を失ったように見えた。それは怒りではなく、むしろ、何か古い傷に触れられたような、痛みに近い表情だった。
「……お前のその綺麗事が、いつか誰かを殺すことになる」
「あなたのその割り切り方が、いつか誰かを見捨てることになります」
二人は、しばらく無言のまま睨み合った。遠くから、救急車のサイレンの音が、少しずつ近づいてくる。
やがて、宵は、朱色の符を持つ手を、ゆっくりと下ろした。
「……今回だけだ」
「え」
「今回だけは、お前の言う通りにする。だが、勘違いするな。俺が折れたわけじゃない。ただ、単純に、時間がない。もうすぐ、表向きの救急が到着する。今ここで揉めている暇は、俺たちにはない」
宵は立ち上がり、コートの裾を翻した。その背中からは、これ以上何も語る気がないことが、はっきりと伝わってきた。
「この人たちは、これから、どうなるんですか」
「病院に運ばれるだろう。意識不明の重体、とでも診断されて。……それが、俺の見立てが正しければ、二度と目を覚ますことのない眠りになる」
「でも、あなたはさっき」
「言っただろう。今回だけは、お前の言う通りにすると。それ以上のことは、俺にもわからない」
宵はそう言うと、群衆の隙間を縫うように、その場を離れていった。ほのかは、追いかけることができなかった。足元に横たわる男性を見下ろしながら、ほのかは、自分が本当に正しいことを言ったのかどうか、確信が持てずにいた。
もし、宵の見立て通り、この人がもう二度と目を覚まさないのだとしたら。今、自分がしたことは、この人を救ったことになるのだろうか。それとも、ただ、宵に重い荷物を、そのまま背負わせ続けただけなのだろうか。
救急車のサイレンが、すぐそこまで近づいていた。ほのかは、涙が滲む目を拭い、駆けつけた救急隊員に場所を譲った。担架に乗せられ、運ばれていく人々の姿を、ほのかはただ、黙って見送ることしかできなかった。
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騒ぎが一段落した頃には、すでに日をまたいでいた。
交差点の周辺には規制線が張られ、警察と消防が現場検証を行っている。テレビ局のカメラも駆けつけ、「原因不明の集団体調不良」というテロップとともに、中継が始まっていた。ほのかは、規制線の外れた路地に一人立ち、その様子を遠目に眺めていた。
全身が鉛のように重かった。血の味がまだ喉の奥に残っている。それでも、頭の中を占めていたのは、疲労よりも、宵の言葉だった。
「お前のその綺麗事が、いつか誰かを殺すことになる」
その言葉が、正しいのかどうか、ほのかにはわからなかった。ただ、宵があの符を下ろしたとき、その手が、わずかに震えていたことだけは、はっきりと覚えていた。
あれは、躊躇いだったのだろうか。それとも、これまで何度も同じことを繰り返してきた、その重さに、ただ耐えているだけだったのだろうか。
ほのかは、路地の暗がりに視線を巡らせた。宵の姿は、もうどこにもなかった。彼が今、どんな気持ちで、どこへ向かっているのか、ほのかには知る術がなかった。
それでも、一つだけ、確信していることがあった。
あの人に、これ以上一人で、あの重荷を背負わせておくわけにはいかない。今夜、初めて自分の言葉で退かせることができたのなら、次もきっと、届くはずだった。
ほのかは、重い足を引きずるようにして、家路についた。東の空には、まだ夜明けの兆しすらなかった。だが、胸の奥には、これまでとは違う、小さな決意の灯が、確かに芽生え始めていた。




