第10章 仮面の裏の孤独
あの夜から、二日が経っていた。
ほのかは、事務所での仕事を終えるたびに、宵のことが気にかかって仕方がなかった。渋谷の交差点で見た、彼の手の震え。「今回だけだ」と言った、あの声の重さ。連絡を取る手段など、最初から持ち合わせていない。だからこそ、余計に落ち着かなかった。
三日目の夜、ほのかは意を決して、あの老朽化した雑居ビルへと向かった。
シャッターの隙間から中へ入り、地下へと続く階段を降りる。いつもなら燭台の炎が揺れているはずの空間は、今夜は妙に静まり返っていた。異様な静けさに、ほのかの背筋を冷たいものが走る。
「宵さん?」
声をかけても、返事はなかった。ほのかは、スマートフォンの灯りを頼りに、奥へと進んだ。壁際に、蹲るような姿勢で倒れている人影を見つけたのは、それから間もなくのことだった。
「宵さん!」
駆け寄ると、宵は荒い息をついていた。額には脂汗が滲み、顔色は紙のように白い。コートは脱ぎ捨てられ、シャツの袖からのぞく左腕には、これまで見たこともない、黒い模様のようなものが浮かび上がっていた。
「……なぜ、お前がここに」
宵は、かすれた声で言った。ほのかを押しのけようとするように、腕を上げかけたが、その腕にはほとんど力が入っていないようだった。
「大丈夫ですか、これ、いったい」
「大丈夫だ。放っておけ」
「放っておけるわけないです」
ほのかは、鞄から取り出したタオルを水で湿らせ、宵の額を拭った。宵は一瞬、身を強張らせたが、抵抗する体力すら残っていないのか、やがて力を抜いた。
「触るな。……お前まで、穢れる」
「穢れるって、どういう意味ですか」
宵は答えなかった。ほのかは、その沈黙を無理に破ろうとはせず、代わりに、彼の左腕にそっと目をやった。黒い模様は、肘から手首にかけて、まるで木の根が広がるように、複雑な紋様を描いていた。よく見れば、それは皮膚の下から滲み出ているようで、単なる怪我や打撲とは、明らかに質が違っていた。
「この痣、前からあったんですか」
「……ずっと前から」
宵は、諦めたように目を閉じ、ぽつりぽつりと語り始めた。
「これは、呪浸食っていう。裏の術を使うたびに、少しずつ広がっていくものだ。俺の家系が、代々背負ってきたものでもある」
「使うたびに、広がる……?」
「影の式神は、澱を喰らうことで力を発揮する。だが、喰らった澱は、消えてなくなるわけじゃない。術者の中に、少しずつ蓄積されていく。それが、この痣の正体だ」
ほのかは、息を呑んだ。渋谷の交差点で見た、あの規模の澱を喰らったのだ。今夜の痣の広がり方が、これまでとは比べ物にならないことは、想像に難くなかった。
「蓄積されて……どうなるんですか」
宵は、しばらく答えなかった。ほのかが、それ以上聞くべきではないかと思い始めた頃、ようやく彼は口を開いた。
「全身が、この模様で覆い尽くされたとき。……意識が、呪いに乗っ取られる」
「乗っ取られるって」
「人格が、消える。喰らってきた澱の悪意そのものに、身体を明け渡すことになる。……その先に何が起きるのか、俺はまだ知らない。知りたくもない」
その声は、恐怖よりも、諦観に近い響きを帯びていた。まるで、避けられない未来を、ずっと前から受け入れているかのように。
「そんな……そんなの、おかしいです。使えば使うほど、自分が壊れていくなんて」
「おかしくても、それが裏の血脈のやり方だ。表の世界が綺麗なままでいられるのは、誰かが、こうやって泥を被り続けているからだ」
ほのかは、言葉を失った。目の前の男が、これまでどれほどの重荷を、一人で背負い続けてきたのか。その一端に、ようやく触れた気がした。
「お父さんも……同じだったんですか」
その問いに、宵の表情が、初めて大きく揺れた。
「……なぜ、それを」
「五芒宮の静さんが、少しだけ。詳しいことは、教えてくれませんでしたけど」
宵は、しばらく黙り込んだ。ほのかは、急かすことなく、ただ湿らせたタオルで、彼の額を拭い続けた。
やがて、宵は、天井を見上げるようにして、ぽつりと語り始めた。
「親父は、俺よりも、ずっと不器用な男だった。誰にも頼らず、誰にも弱さを見せず、ただ黙々と、汚れ仕事を続けていた。……最後は、全身がこの模様で覆われて、俺のことも、誰のことも、わからなくなった」
「……」
「発狂して、自分の家に、一人で火を放った。俺が見つけたときには、もう何も残っていなかった」
その淡々とした語り口が、かえって、その出来事の凄惨さを際立たせていた。ほのかは、胸が締め付けられるのを感じた。誰にも知られず、誰にも助けを求めることなく、たった一人で、狂気の中に消えていった男の姿。それを、まだ幼かったであろう宵が、目の当たりにしたのだ。
「宵さんは、ずっと一人で、それを見てきたんですね」
「同情はいらない」
宵は、目を逸らすように言った。「これが、俺たちの生き方だ。表の人間に理解される必要も、同情される必要もない」
「同情してるんじゃないです」
ほのかは、湿らせたタオルを置き、真っ直ぐに宵を見つめた。
「怒ってるんです。誰にも知られず、誰にも助けてもらえず、一人でそんな重荷を背負わされてきたことに。それを『これが裏のやり方だ』の一言で片付けようとしていることに」
「片付けなければ、やっていけない」
「片付けなくていいんです。もう」
ほのかの声は、震えていた。だが、その震えは、恐れからではなかった。
「私が、ここにいます。あなたが、一人でこの痣を抱えて、お父さんと同じ末路を辿るのを、黙って見ているつもりはありません」
宵は、驚いたように目を見開いた。その表情には、これまで見たことのない、はっきりとした動揺が浮かんでいた。
「お前に、何ができる」
「わかりません。でも、少なくとも、あなたが一人でこの痣を広げ続けなくて済むように、私も一緒に戦います。渋谷の夜、二人の術が重なったとき、あなたの喰らう量は、いつもより少なかったんじゃないですか」
その言葉に、宵は一瞬、答えに詰まった。図星だったのだろう。ほのかの光と、宵の影が重なったとき、澱を喰らう役割の大半を、宵の影だけが担う必要はなかった。二人で分け合えば、宵一人にかかる負担も、その分だけ軽くなるはずだった。
「……屁理屈だ」
「屁理屈でも、事実です」
宵は、深く息を吐いた。疲労のせいか、あるいは、ほのかの言葉に何かを感じ取ったのか、その表情から、少しだけ、張り詰めていたものが緩んだように見えた。
「お前は、変わった女だな」
「よく言われます」
ほのかは、小さく笑った。宵は、それに応えることはなかったが、それ以上、拒絶の言葉を重ねることもなかった。
ほのかは、濡れたタオルを絞り直し、再び宵の腕にそっと触れた。黒い模様の浮かぶ、その皮膚に。宵は、びくりと身を強張らせたが、今度は、その手を振り払おうとはしなかった。
「冷たい手だ」
「あなたの方が、よっぽど熱があります」
そんな他愛のないやり取りを交わしながら、ほのかは、しばらくの間、宵の看病を続けた。傷らしい傷はなかったが、全身が消耗しきっているのは明らかだった。ほのかは、鞄の中から持ってきた栄養補助のゼリー飲料を取り出し、宵の口元に差し出した。
「食べられそうですか。何か、口に入れておいた方がいいです」
「……いらない」
「意地張らないでください。倒れられたら、困るのは私なんですから」
宵は、しばらく無言でほのかを見つめていたが、やがて、諦めたように小さく頷き、ゼリー飲料を受け取った。細い喉が、ゆっくりと上下する。それだけの仕草にも、ひどく体力を消耗しているのが見て取れた。地下の暗がりに、燭台の炎が、静かに揺れている。誰にも知られることのない、二人だけの時間だった。
ほのかは、看病を続けながら、ふと思う。あの朝焼けの色と同じだ、と。夜と朝のどちらでもない、境界の時間。この地下の暗がりで過ごす今この瞬間もまた、光と影のどちらでもない、二人だけの境界線なのかもしれなかった。
やがて、宵の呼吸が、少しずつ穏やかになっていった。疲労のせいで、眠りに落ちたのだろう。ほのかは、その寝顔を見つめながら、そっと呟いた。
「お父さんと同じ末路になんて、絶対にさせません」
誰にも聞こえるはずのない、静かな誓いだった。それでも、ほのかは、確かにその言葉を口にした。地下の暗がりに、小さな灯りが、いつまでも揺れ続けていた。




