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朝焼けの境界線 〜表裏の陰陽師〜  作者: 久遠 睦


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第11章 拒絶と、二度目の手

目を覚ましたとき、ほのかは、自分がいつの間にか眠りに落ちていたことに気づいた。

 壁にもたれかかったまま、身体が固まっている。スマートフォンの画面には、午前五時という表示があった。地下には窓もなく、外の光が入る気配はない。それでも、時間の感覚だけは、じわりと現実を突きつけてくる。仕事は九時からだ。あと数時間しかない。

 視線を巡らせると、宵がすでに目を覚まし、こちらをじっと見つめていることに気づいた。その表情に、ほのかは思わず息を呑んだ。昨夜の、あの柔らかさの欠片もなかった。硬く冷たい、以前の彼に戻ったような目だった。

「……起きたか」

「宵さん、おはようございます。少し眠っちゃってたみたいで」

 ほのかは、笑顔を作ろうとした。だが、宵の表情は、少しも和らがなかった。むしろ、その硬さは、ますます強くなっていくようだった。

「なぜ、朝までいた」

「心配、だったので」

「頼んでいない」

 その一言は、これまでのどんな拒絶よりも鋭く、ほのかの胸に突き刺さった。

「昨夜のことは、忘れろ。弱っていたから、余計なことを口走った。……ああいうことは、二度とない」

「余計なことじゃ、ないです」

「余計なことだ」

 宵は、ゆっくりと身を起こした。まだ本調子ではないのだろう、動作の端々に、痛みを堪えるような硬さが見えた。それでも、彼はほのかから目を逸らさなかった。

「昨日、お前に何を話したか、覚えている。親父のことも、この痣のことも。……あれは、話すべきじゃなかった」

「どうして、話すべきじゃないんですか」

「お前を、巻き込むことになるからだ」

 その言葉には、これまで聞いたどの拒絶よりも、はっきりとした恐れが滲んでいた。ほのかは、その恐れの正体を、まだ完全には理解できずにいた。

「巻き込むって、私はもう」

「もう、じゃない。今なら、まだ引き返せる」

 宵は、立ち上がりながら言った。「お前が知っているのは、まだほんの入り口だ。この先には、もっと救いのない現実が待っている。……俺の親父がどうなったか、話しただろう。俺自身も、いずれ同じ道を辿る。その道連れに、お前を巻き込むわけにはいかない」

「道連れなんかじゃ」

「道連れだ」

 宵の声が、初めて大きくなった。

「お前がそばにいればいるほど、俺はお前を頼るようになる。頼れば頼るほど、お前を失うことが、俺にとっての弱みになる。……表の陰陽師は、裏の人間の弱みを、決して見せてはいけない相手だ。それが、この家系のルールだ」

「そんなルール、今のあなたには関係ないはずです」

「関係ある」

 宵は、コートを羽織りながら、ほのかに背を向けた。

「もう、来るな。お前は、お前の世界で生きろ。俺のことは、忘れていい」

 その背中に、ほのかは何度も言葉をかけようとした。だが、どの言葉も、宵の頑なな沈黙の前では、無力に思えた。地下の階段を上がっていく彼の後ろ姿を、ほのかは、ただ見送ることしかできなかった。

________________________________________

 それから、数日が過ぎた。

 ほのかは、いつも通りに仕事をこなし、夜になれば一人で街を巡った。澱の密度は相変わらず高く、日を追うごとに、その質もどこか不穏さを増しているように感じられた。それでも、宵の姿を見かけることはなかった。

 あの日の言葉が、何度も頭の中で繰り返された。

「もう、来るな」

 突き放すような声だったが、ほのかには、その奥に隠された恐れが、はっきりと伝わっていた。彼は、ほのかを遠ざけたいのではなく、ほのかを失うことを恐れているのだ。誰かを大切に思うことが、そのまま弱みになる世界を、彼はずっと生きてきた。だからこそ、大切に思い始めた瞬間から、その相手を遠ざけようとする。

 それは、あまりにも寂しい生き方だった。

 仕事の合間、有紀と何気ない話をしているときも、ほのかの心のどこかには、いつも宵のことがあった。あの痣は、今もどこかで、少しずつ広がり続けているのだろうか。誰にも看病されることなく、一人で耐えているのだろうか。

「私は、間違っていたのかな」

 六日前にも、同じ言葉を呟いた気がする。あの時とは、違う意味で。今度は、彼に近づいたことが間違いだったのではなく、あの拒絶を、そのまま受け入れてしまったことが、間違いだったのではないかという思いだった。

 五日目の夜、ほのかは、いつもの巡回中に、小さな澱を一つ見つけた。誰かの悪意が、行き場を失って吹き溜まっている、ごくありふれた澱だった。白符をかざし、いつも通りに祓う。だが、その作業をしている間も、頭の片隅には、ずっと宵のことがあった。

 二人で祓えば、もっと早く済んだはずだ。二人で立ち向かえば、もっと多くの澱を、もっと確実に、この街から消していけるはずだ。それなのに、今は一人きりで、以前と変わらない速度でしか、街を歩けずにいる。

 効率の話だけではなかった。ほのかは、認めたくなかったが、単純に、宵がいない夜が、寂しかった。あの、感情の削げ落ちた声も、素っ気ない物言いも、地下の暗がりで揺れる燭台の炎も、いつの間にか、ほのかの中で、なくてはならないものになりかけていた。

 六日目の夜も、七日目の朝も、宵の姿はどこにも見当たらなかった。

 七日目の夜、ほのかは、意を決して、再びあの雑居ビルへと向かった。

________________________________________

 地下への階段を降りると、宵は、いつもの壁際に、背をもたせかけて座っていた。ほのかの気配に気づき、目を開ける。その表情には、驚きよりも先に、明らかな苛立ちが浮かんだ。

「言ったはずだ。もう来るな、と」

「聞きました。でも、従うとは言っていません」

 ほのかは、まっすぐに宵の前に立った。宵は、疲れたように目を伏せ、立ち上がろうとした。だが、ほのかは、それより先に、彼の腕を掴んだ。

「離せ」

「離しません」

 宵は、その手を振り払おうとした。だが、ほのかは、両手でしっかりと、彼の左腕を包み込んだ。黒い模様の浮かぶ、あの皮膚に。

「触るな。……お前まで、穢れる」

 あの夜と同じ言葉を、宵は繰り返した。だが、今度は、ほのかは怯まなかった。

「穢れるかどうかは、私が決めます。あなたが決めることじゃありません」

「わからず屋だな」

「そうかもしれません。でも、これだけは、譲れません」

 ほのかは、宵の目を、まっすぐに見つめた。

「あなたは、大切に思う相手を、遠ざけることでしか、守れないと思っているのかもしれません。誰かを頼ることが、弱みになると思っているのかもしれません。でも、それは違います」

「違わない」

「違います」

 ほのかの声は、静かだったが、揺るぎなかった。

「一人で抱え込むことは、強さじゃないです。それは、ただ、誰にも頼れなかった結果、そうするしかなかっただけです。お父さんが、そうだったように」

 その言葉に、宵の肩が、はっきりと震えた。

「あなたのお父さんは、誰にも頼れずに、一人で壊れていきました。あなたまで、同じ道を辿る必要はないです」

「……お前に、何がわかる」

「わかりません。あなたが背負ってきたものの重さも、痛みも、私には想像することしかできません。それでも」

 ほのかは、宵の左腕を包む手に、そっと力を込めた。

「これからは、あなたが一人で闇に隠れる必要なんてない。私が、あなたの盾になるから」

 その言葉を口にした瞬間、ほのかの中で、何かが確かに定まった気がした。運命だから、ではない。千年前の預言だから、でもない。ただ、目の前のこの人を、一人にしたくない。それだけが、今の自分にとって、揺るぎない真実だった。

 宵は、しばらく何も言わなかった。ほのかの手を振り払うことも、これ以上言葉を重ねることもなく、ただ黙って、俯いていた。やがて、絞り出すような声で、彼は言った。

「……好きにしろ」

 それは、これまでの拒絶とは、明らかに違う響きだった。降参にも似た、だがどこか、安堵にも似た声だった。

「本当に、いいんですか」

「二度は言わない」

 宵は、そっぽを向いたまま、そう答えた。だが、包み込んだままのほのかの手を、今度は振り払おうとはしなかった。

 地下の暗がりに、燭台の炎が、揺れている。冷たいはずのその空間が、今夜は、少しだけ、温かく感じられた。ほのかは、宵の手を握ったまま、しばらくその場に座り込んだ。二人の間に流れる沈黙は、もう以前のような、張り詰めたものではなかった。

 東の空には、まだ夜明けの兆しは見えない。それでも、この地下の暗がりの中に、ほんの小さな朝焼けが、確かに差し込み始めているような気がした。


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