第12章 教室になった地下室
「今日は、こんなものを持ってきました」
ほのかは、鞄からノートパソコンを取り出し、埃をかぶった木箱の上に置いた。地下の薄暗がりに、画面の光がぼんやりと浮かび上がる。宵は、壁際に座ったまま、胡散臭そうにそれを見つめた。
「何のつもりだ」
「勉強会です」
「勉強会」
宵は、聞き慣れない単語を繰り返すように呟いた。ほのかは、その反応がおかしくて、思わず笑ってしまった。
「私たちが相手にしてる歪みって、澱がSNSでどう広がるかに、大きく左右されるじゃないですか。だったら、その仕組みを知っておいた方が、次に大きな騒ぎが起きそうな場所を、先回りして予測できるかもしれません」
「理屈はわかる。だが、俺にそれを教える意味があるのか」
「あります。私が仕事で使ってる知識、宵さんの直感と組み合わせたら、きっと強いはずです」
ほのかは、そう言って、隣に座るよう促した。宵は、しばらく渋っていたが、やがて諦めたように、木箱の前に腰を下ろした。
「まず、これがスマートフォンです」
「知っている。それくらいは」
「じゃあ、実際に触ったこと、ありますか」
宵は、答えに詰まった。ほのかは、それだけでもう、答えを察してしまった。
「……ないんですね」
「必要なかっただけだ」
「じゃあ、今日は基礎の基礎からいきましょう」
ほのかは、自分のスマートフォンを取り出し、宵の手に握らせた。宵は、まるで爆発物でも扱うかのように、両手でおそるおそるそれを持った。その仕草が、あまりにも様になっていなくて、ほのかは笑いを堪えるのに苦労した。
「画面を、指で軽く叩いてみてください」
「叩く?」
「タップって言います。優しく、触れる感じで」
宵は、恐る恐る画面に触れた。ロック画面が解除され、ホーム画面が表示される。無数のアイコンが並んだ画面を見て、宵は、明らかに戸惑った表情を浮かべた。
「これは、何だ」
「アプリって呼ばれるものです。それぞれ、別の機能を持ってます。これが地図、これがカメラ、これが」
「多すぎる」
宵の呟きに、ほのかはとうとう吹き出してしまった。
「みんな、最初はそう思うんですよ。でも、慣れると便利なんです」
「便利、か」
宵は、画面を睨みつけながら、恐る恐る別のアイコンをタップした。カメラアプリが起動し、画面に、困惑した表情の自分自身が映し出される。宵は、ぎょっとしたように、思わずスマートフォンを取り落としそうになった。
「うわ」
その反応があまりに素直で、ほのかは、また笑ってしまった。
「大丈夫ですか」
「……油断した」
「宵さんでも、油断とかするんですね」
「うるさい」
宵は、不機嫌そうにそっぽを向いた。だが、その耳が、わずかに赤くなっていることに、ほのかは気づいていた。
「せっかくだから、カメラの使い方も練習しましょうか」
「さっき、勝手に自分の顔を撮っただろう」
「あれは事故です。ちゃんと撮り方を教えます」
ほのかは、宵の手からスマートフォンを一度受け取り、カメラを起動させたまま、再び持たせた。
「画面に映ってるものが、そのまま写真になります。この丸いボタンを押せば、シャッターが切れます」
「それだけか」
「それだけです」
宵は、半信半疑といった様子で、画面をこちらに向けた。ほのかは、思わず身構える。
「ちょ、待って、心の準備が」
「動くな。ぶれる」
「宵さんが急に言うから」
小さな争いのあと、結局、宵はシャッターを切った。画面に表示されたのは、驚いた顔のほのかと、その向こうで、ほんの少しだけ口元を緩めている宵自身が、偶然写り込んだ一枚だった。
「これ、見せてください」
ほのかが画面を覗き込むと、宵は慌てたように、スマートフォンを引っ込めようとした。
「消せ」
「消しません。いい写真です」
「消せと言っている」
「嫌です」
結局、その写真は消されないまま、ほのかのスマートフォンの中に残ることになった。宵は、最後まで納得のいかない表情を浮かべていたが、それ以上、無理やり取り上げようとはしなかった。
基本的な操作を一通り教えたあと、ほのかは、ノートパソコンの画面を宵に見せながら、SNSの仕組みについて説明を始めた。
「投稿が拡散する仕組みって、単純に言うと、感情を強く動かすものほど、速く、遠くまで広がるんです。怒りとか、驚きとか、そういう強い感情を刺激する投稿ほど、リポストされやすい」
「悪意も、感情の一つということか」
「そうです。それも、一番強くて、一番厄介な感情の一つです」
ほのかは、実際にいくつかの投稿の拡散データを画面に映しながら、説明を続けた。宵は、意外にも、真剣な顔でそれを見つめていた。
「この波形、見覚えがある」
「え?」
「渋谷で見た、あの澱の体表の光り方だ。急に強く光る瞬間があった。あれが、この波形と同じだったのか」
ほのかは、少し驚いた。宵は、これまで感覚だけで澱の動きを捉えてきたのだろう。それを、こうしてデータの波形として言語化されたことで、初めて理解が具体的な形を得たようだった。
「その通りです。あの光り方は、投稿が急激に拡散するタイミングと、たぶん一致してます。もし、拡散の兆候を事前に察知できれば、澱が肥大化する前に、動くこともできるかもしれません」
「……お前のその知識、思ったより役に立つな」
「思ったより、は余計です」
ほのかがそう言うと、宵は珍しく、口の端をわずかに緩めた。それは、笑みと呼ぶには、あまりにささやかなものだったが、ほのかにとっては、これまで見た中で、一番柔らかい表情だった。
________________________________________
勉強会という名目の時間は、いつの間にか、他愛のない雑談に変わっていった。
「宵さんって、普段、何を食べてるんですか」
「食べられるものは、なんでも」
「それ、答えになってないです」
ほのかが呆れたように言うと、宵は、少し考え込むような顔をした。
「……コンビニの、おにぎりが多い。梅干しの」
「意外と庶民的ですね」
「文句あるか」
「ないです。私も好きです、梅干しのおにぎり」
「……今度、買ってくる。二つ」
ぼそりと呟かれたその一言に、ほのかは、一瞬、聞き間違いかと思った。
「それって、私の分もってことですか」
「別に、深い意味はない。ついでだ」
宵は、視線を逸らしたまま、そう付け加えた。ほのかは、込み上げてくる嬉しさを、なんとか顔に出さないようにこらえた。こんな些細なことで、これほど心が浮き立つとは、自分でも思っていなかった。
「楽しみにしてます」
「期待するな」
そんな他愛のないやり取りに、宵は、居心地悪そうに視線を逸らした。だが、それを嫌がっている様子はなかった。むしろ、慣れない会話に戸惑いながらも、少しずつそれを受け入れているように、ほのかには見えた。
「宵さんは、休みの日って何してるんですか」
「休みなんて、ない」
「ずっと働いてるってことですか」
「働くというより……澱は、待ってくれない。休んでいる間に、誰かが傷つく」
その言葉には、これまでの会話にはなかった重さが、わずかに滲んでいた。ほのかは、それ以上踏み込むことはせず、代わりに、話題を変えた。
「じゃあ、今日みたいな時間も、宵さんにとっては、休みみたいなものですね」
「……そうなのか」
「そうですよ。誰かと、こうやって、たわいもない話をする時間。宵さんには、今まで、あんまりなかったんじゃないですか」
宵は、答えなかった。だが、その沈黙は、否定の沈黙ではなかった。ほのかは、それだけで、十分だと思った。
「今度は、もっと色々な使い方、教えますね。写真の撮り方とか、地図アプリの見方とか」
「……ほどほどにしてくれ」
「善処します」
ほのかが、いたずらっぽく笑うと、宵は、小さくため息をついた。それでも、その口元には、確かに、柔らかな空気が漂っていた。
地下の暗がりに、パソコンの画面の光と、燭台の炎が、静かに揺れている。誰にも知られることのない、二人だけの、ごくありふれた午後だった。
こんな時間が、これからも続けばいい。ほのかは、そう思いながら、画面の向こうの宵の横顔を、そっと見つめていた。彼の表情には、まだ完全に警戒が解けたわけではない硬さが残っていたが、それでも、以前とは明らかに違う何かが、そこにはあった。
外の世界では、今この瞬間も、悪意が積み重なり続けているのだろう。だが、この地下室の中だけは、時間の流れが、少しだけ緩やかだった。ほのかは、そのささやかな安らぎを、大切にしたいと思った。




