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朝焼けの境界線 〜表裏の陰陽師〜  作者: 久遠 睦


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第13章 燃やした本人

「あの夜の投稿、発信元を辿れると思います」

 ほのかは、ノートパソコンの画面を宵に向けながら言った。渋谷の交差点を襲った、あの大規模な澱の発生源――最初に拡散された告発文を投稿したアカウントの情報を、ほのかは仕事の合間を縫って調べ続けていた。

「辿って、どうする」

「わかりません。でも、知っておきたいんです。あれだけの騒ぎを引き起こした発端が、いったいどんな人なのか」

 宵は、しばらく黙って画面を見つめていたが、やがて小さく頷いた。

「……付き合おう」

 その一言に、ほのかは少し驚いた。以前の宵なら、興味がないと切り捨てていたかもしれない。だが今は、彼自身も、あの夜の出来事に、何か引っかかるものを感じているようだった。

 投稿の削除履歴や、他のアカウントとの相互関係を丹念に追っていく作業は、思いのほか根気のいる仕事だった。ほのかは、仕事で培った解析の勘を頼りに、削除されたはずの投稿のキャッシュや、リポストの連鎖を一つずつ辿っていった。宵は、その隣で、画面を覗き込みながら、ときおり鋭い指摘を挟んだ。

「この時間帯だけ、拡散の速度が不自然に跳ね上がっている」

「本当ですね……これ、複数のアカウントが、示し合わせたように、同時に拡散に加担してる」

「一人の仕業じゃない、ということか」

「いえ、たぶん、中心は一人です。ただ、その人が、拡散を後押しするための仕掛けを、事前に用意していたんだと思います」

 二人で画面に向き合い、言葉を交わしながら手がかりを繋いでいく時間は、これまでの巡回とは違う種類の緊張感を伴っていた。それでも、ほのかにとっては、悪くない時間だった。

 最初にあの告発文を投稿したアカウントの持ち主が、都内在住の、二十代後半の男性らしいということがわかってきたのは、深夜近くになってからのことだった。名前は、乗富蓮。表向きは、ごく普通の会社員だった。

 自宅の住所も、投稿に紐づいた位置情報の断片から、おおよその見当がついた。ほのかと宵は、その足で、彼の住むアパートへと向かった。

________________________________________

 辿り着いたアパートは、都内の外れにある、古びた木造の建物だった。部屋番号を頼りに、二階の一室の前に立つ。インターホンを押しても、しばらく応答はなかった。

「留守、でしょうか」

 ほのかがそう言った時、宵が、ドアの隙間から漂う異様な気配に気づいた。

「……澱の匂いがする」

「え」

「それも、かなり濃い」

 宵は、ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。押し開けると、薄暗い部屋の奥、フローリングの床に、一人の男が仰向けに倒れているのが見えた。

「乗富さん!」

 ほのかは、駆け寄って声をかけた。だが、男の瞳は、虚ろに天井を見つめたまま、微動だにしなかった。呼吸だけは、かろうじて続いている。それは、あの渋谷の交差点で見た、あの症状と、まったく同じだった。

「精神溶解……」

 ほのかは、絶句した。周囲を見渡すと、部屋の中には、何台ものモニターと、大量の資料が散乱していた。壁一面に貼られたメモには、様々なアカウント名や、拡散戦略らしき図表が、几帳面な文字で書き込まれている。

「これ……」

「炎上を、意図的に仕掛けていたようだな」

 宵は、散らばった資料を一枚拾い上げ、目を通した。そこには、どのタイミングで、どんな言葉を使えば、投稿がより拡散されやすくなるかという、緻密な分析が記されていた。まるで、マーケティングの手法をそのまま悪意の拡散に応用したような、恐ろしく合理的な計画書だった。

「愉快犯、ということですか」

「わからない。だが、単純な悪意だけで、ここまで計算し尽くすとは思えない」

 宵は、部屋の隅に置かれた、一枚の写真立てに目を留めた。若い頃の乗富と思われる青年が、誰かと肩を組んで笑っている写真だった。裏には、色褪せたインクで、短いメッセージが書かれていた。

「――お前の言葉には、いつも救われる。ありがとう、蓮」

「これ、誰かからの手紙、でしょうか」

 ほのかは、その写真をそっと手に取った。乗富蓮という男が、最初から悪意だけで動いていた人間だとは、その表情からは思えなかった。むしろ、写真の中の彼は、誰よりも人懐っこく、優しげな顔をしていた。

 部屋の隅から、埃をかぶったノートを見つけたほのかは、ページをめくった。そこには、数年前の日付から始まる、彼自身の言葉で綴られた記録があった。かつて、彼は、誰かを励ますための言葉を、SNSで発信し続けていたらしい。だが、ある時期を境に、そのノートの記述は、急速に暗く、歪んだものへと変わっていった。

 誰かに裏切られたこと。信じていた言葉が、利用され、踏みにじられたこと。それに対する怒りが、少しずつ、誰かを傷つけることへの快感にすり替わっていった過程が、生々しく記されていた。

「この人も……被害者だったのかもしれません」

 ほのかは、震える声で呟いた。

「最初から、悪意の塊だったわけじゃない。誰かを傷つけることに、快感を覚えるようになるまでに、この人自身が、何度も傷つけられてきたんだと思います」

 宵は、床に横たわる乗富の姿を、静かに見下ろした。

「加害者であり、被害者でもある、か」

「そんなの、ずるいです。誰も、悪者じゃないなんて」

「そういうものだ、この時代の澱は」

 宵の声には、これまでにない重さがあった。

「顔の見えない悪意の連鎖は、誰か一人を悪者にして終わる話じゃない。傷つけられた人間が、また別の誰かを傷つける。その連鎖の、どこにも、明確な始まりも終わりもない」

 その言葉に、ほのかは、ぞっとするような理解を覚えた。今回の元凶だと思っていた乗富蓮もまた、この連鎖の、一つの結び目に過ぎなかったのだ。彼を止めたところで、次の結び目が、また別の場所で生まれるだけだった。

 救急車を呼び、乗富の搬送を見届けたあと、ほのかと宵は、無言のまま、夜の街を歩いた。

________________________________________

「宵さんの、お父さんも……」

 ほのかが、ためらいがちにそう切り出すと、宵は、珍しく、自分から言葉を続けた。

「親父も、最初から、あの痣を持って生まれてきたわけじゃない。誰かの澱を、一つ、また一つと、喰らい続けた結果だ。……その澱は、誰かの絶望であり、憎しみであり、行き場のない悲しみだった」

「宵さんは、それを、全部知っていたんですか」

「知らなかった。親父は、何も語らなかったから。ただ、最後に、あの模様に全身を覆われた親父が、俺に向かって、何かを言おうとしていたことだけは覚えている」

「何て、言おうとしてたんですか」

「わからない。もう、言葉になっていなかった」

 宵の声は、淡々としていたが、その奥に、深い痛みが滲んでいるのが、ほのかにはわかった。

「俺は、ずっと思っていた。この血脈に生まれた以上、いずれ同じ末路を辿るのは避けられない、と。だから、誰とも深く関わらず、ただ淡々と、汚れ仕事をこなしていけばいい。……それが、一番、傷つかずに済む生き方だと思っていた」

「今も、そう思ってますか」

 ほのかの問いに、宵は、しばらく沈黙した。夜風が、二人の間を静かに通り過ぎていく。

「……わからなくなった」

「わからなくなった、って」

「お前と会ってから、俺は、随分と柄にもないことばかり考えるようになった。誰かと言葉を交わす時間が、意外と悪くないと思ったり。誰かの手が、思ったより、温かいと感じたり」

 宵は、そこで一度言葉を切り、遠くの空を見上げた。

「それでも、この痣が消えるわけじゃない。俺の未来が、変わるわけでもない。……それでも、今この瞬間だけは、ただの諦観だけじゃない何かが、俺の中にあるのかもしれない」

 その言葉は、告白と呼ぶには、あまりにも不器用だった。だが、ほのかにとっては、これまで聞いたどんな言葉よりも、真っ直ぐに胸に届いた。

「今この瞬間だけでも、十分です」

「甘いな」

「甘くていいです、こういうのは」

 ほのかが笑うと、宵は、小さく息を吐いた。それは、諦めのため息ではなく、どこか、肩の力が抜けたような、そんな響きだった。

 乗富蓮の部屋で見た、あの緻密に計算された拡散戦略のメモを、ほのかは思い出す。あれは、一人の異常者による特殊な犯行ではなかった。誰の心の中にも巣食いうる、ごくありふれた憎しみの連鎖が、たまたま、彼という結び目を通して、大きく膨れ上がっただけだった。

 この街のどこかで、今この瞬間も、同じような連鎖が、静かに育まれているのかもしれない。それを、たった二人の力で、いつまで食い止め続けられるのか。ほのかには、まだ、その答えが見えなかった。

 それでも、今は、隣を歩く宵の存在が、確かな支えだった。二人で見上げる夜空の向こう、東の端に、まだ夜明けにはほど遠い、微かな気配だけが、静かに滲んでいた。


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