第三部 因縁の反転 第14章 二七年のグランドゼロ
二〇二七年、盛夏。
その日は、朝から蒸し暑く、東京の空には、灰色がかった雲が低く垂れ込めていた。ほのかは、いつも通りに事務所へ向かおうとしていたが、駅の改札を抜けたところで、様子がおかしいことに気づいた。
電光掲示板の表示が、乱れている。運行情報の文字が、意味をなさない記号の羅列に変わり、瞬いては消えていく。周囲の乗客たちが、一様にスマートフォンを取り出し、画面を見つめて怪訝な顔をしていた。
「電波が、繋がらない……」
誰かの呟きが、耳に入った。ほのかも、自分のスマートフォンを確認する。画面には、圏外の表示があった。何度再起動しても、同じだった。
嫌な予感が、胸の奥を這い上がってきた。ほのかは、踵を返し、駅の外へと駆け出した。
街の様子は、明らかに異常だった。信号機が、赤と青を同時に点灯させたまま、固まっている。あちこちの店先で、テレビやデジタルサイネージが、意味不明なノイズ画面を映し出し続けていた。人々は、突然の通信障害に戸惑いながらも、まだそれを、単なる技術的なトラブルだと信じているようだった。
だが、ほのかにはわかった。これは、そんな生易しいものではない。
空を見上げると、都心のビル群の遥か上空に、これまで見たこともない規模の黒い靄が、渦を巻きながら広がっていくのが見えた。まるで、天そのものが、悪意によって塗りつぶされていくかのような光景だった。
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「宵さん!」
ほのかは、走りながら電話をかけた。だが、通話は繋がらなかった。仕方なく、いつもの雑居ビルへと向かう。地下への階段を駆け下りると、宵はすでに、険しい表情で立ち上がっていた。
「感じたか」
「はい。……こんなの、初めてです」
「俺もだ」
宵は、コートを羽織りながら、外の様子に耳を澄ませた。
「電波だけじゃない。国中の通信網が、まとめて呑み込まれかけている。これほどの規模の澱を、いったい誰が、どうやって溜め込んだのか」
「これまで、ずっと増え続けてきた密度の、行き着いた先ということですか」
「そうかもしれない。……いや、それだけじゃ説明がつかない。誰か、あるいは何かが、意図的にこれを引き起こしている可能性がある」
二人は、地上へと駆け上がった。街の様子は、時間が経つごとに、悪化の一途を辿っていた。あちこちで、人々が突然その場に崩れ落ちていく。原因のわからない混乱に、悲鳴と怒声が、街のいたるところで響き渡っていた。
救急車のサイレンが、絶え間なく鳴り響いている。だが、その数はすでに、追いつかないほどに増えていた。
「精神溶解の被害が、この規模で……」
ほのかは、言葉を失った。目の前を通り過ぎる人々の中にも、明らかに様子のおかしい者が、何人もいた。虚ろな目で、ふらふらと歩き続ける人。突然、その場に座り込み、動かなくなる人。これまで見てきたどの夜よりも、はるかに広範囲で、この異変は進行していた。
「これは、渋谷だけの話じゃない」
宵が、低い声で言った。
「今、俺たちが感じている澱の気配は、東京だけじゃなく、もっと広い範囲から届いている。おそらく、日本中で、同じことが起きている」
「そんな……」
ほのかは、目眩がするような感覚に襲われた。渋谷の交差点で見たあの惨状が、日本全土で同時に起きているのだとしたら。想像するだけで、足がすくみそうだった。
「怯むな」
宵が、ほのかの肩に手を置いた。その手には、確かな力が込められていた。
「怯んでいる暇はない。この澱の中心――発生源が、どこかにあるはずだ。そこを断てば、この連鎖も止まる」
「発生源、心当たりがあるんですか」
宵は、東の空を見上げた。渦を巻く黒い靄の中心は、はっきりと一点に収束しているように見えた。新宿の方角――高層ビル群が立ち並ぶあたりから、すべての澱が、まるで吸い込まれるように、その一点へと流れ込んでいた。
「あそこだ」
宵の視線の先には、新宿都庁の展望台があった。
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二人は、混乱する街を駆け抜けた。いつもは賑わっているはずの通りは、逃げ惑う人々と、立ち尽くす人々とが入り混じり、異様な光景を呈していた。ほのかは、道端で倒れている人々に、何度も目を奪われそうになった。だが、今、彼らを一人ひとり助けている時間はない。この惨状を根本から止めるには、発生源を断つしかない。
商店街のアーケードを抜けるとき、シャッターを下ろそうとする店主の姿があった。だが、シャッターも、電動式のものは軒並み動かなくなっており、店主は、手動のチェーンを必死に引きながら、それでも思うように下ろせずにいた。その隣では、幼い子どもを抱えた父親が、途方に暮れたように、空を見上げていた。
いつもなら気にも留めないような、ごくありふれた街の光景の一つひとつが、今夜は、すべて、崩れかけた日常の断片として、ほのかの目に焼きついていった。
交差点を渡るとき、ほのかは、ベビーカーを押しながら立ち尽くす若い母親の姿を見た。母親自身は、まだ意識を保っているようだったが、その顔には、隠しきれない恐怖が浮かんでいた。子どもを抱きしめながら、彼女は、震える声で、誰かに電話をかけようとしていた。繋がるはずのない電話を、それでも何度も。
ほのかは、足を止めそうになった。だが、宵の手が、その肩を掴んだ。
「今、俺たちが足を止めても、あの人を助けることにはならない。もっと根本から、止めなければ」
「わかってます……わかってるんです」
それでも、胸が締め付けられるような感覚は、消えなかった。この街には、あの母親のような人が、数えきれないほどいる。その一人ひとりの不安と恐怖を、自分たちは今、置き去りにして走っている。それでも、進むしかなかった。
自分に言い聞かせながら、ほのかは、宵とともに、新宿へと急いだ。
新宿の高層ビル群が、視界の先に見えてきた頃には、辺りはすでに、これまで見たどの街角とも違う、異様な静けさに包まれていた。ビルという象徴の足元で、この国そのものが、音もなく壊れ始めている。その予感だけを胸に、二人は、最後の力を振り絞って走り続けた。




