第15章 軋む国土
新宿へと走る途中、家電量販店の店先で、まだ辛うじて電源の入っていたテレビが、宵の目に留まった。
画面には、スタジオでマイクを握る、青ざめた顔のアナウンサーが映っていた。
『――繰り返しお伝えします。現在、関東圏を中心に、大規模な通信障害と、それに伴う集団体調不良が報告されています。総務省は原因究明を急ぐとともに――』
その声が、途中でノイズにかき消され、画面が乱れる。次に映ったのは、別の局からの中継映像だった。
『大阪でも、同様の被害が報告されています。梅田駅では、多数の利用者が意識を失い……』
映像は、そこでぶつりと途切れた。画面全体が、砂嵐のようなノイズに覆われる。宵は、足を止めることなく、その光景を横目に見た。大阪。おそらく、それだけではないだろう。福岡でも、札幌でも、名古屋でも、今この瞬間、同じことが起きている。
「東京だけの話じゃないって、本当だったんですね」
ほのかの声が、震えていた。
「日本中の街で、あの夜の渋谷と同じことが」
「想像するな。今は、走ることだけ考えろ」
宵の声には、これ以上の動揺を、自分にも、ほのかにも許すまいとする、強い意志が滲んでいた。
交差点を抜けるとき、救急外来と書かれた病院の入り口が、視界の端に入った。自動ドアが、非常用電源の不安定な出力に合わせて、開いたり閉じたりを繰り返している。中では、白衣の看護師たちが、点滴スタンドを引きずりながら、慌ただしく行き交っていた。人工呼吸器の警告音が、幾つも重なり合って、外の路上にまで漏れ聞こえてくる。
入り口の脇には、担架に乗せられた患者が、順番待ちのまま、路上に並べられていた。付き添いの家族たちが、青ざめた顔で、その傍らに立ち尽くしている。誰も、大きな声を上げてはいなかった。ただ、静かに、事態が好転することを祈るように、じっと、その場に佇んでいた。その静けさこそが、かえって、事態の深刻さを物語っていた。
ほのかは、その音に、思わず耳を塞ぎたくなった。だが、耳を塞いだところで、この国のどこかで、今この瞬間も、同じ音が、数えきれないほど鳴り響いているのだろう。
新宿の高層ビル群が、視界の先に見えてきた頃には、辺りはすでに、これまで見たどの街角とも違う、異様な静けさに包まれていた。ビルという象徴の足元で、この国そのものが、音もなく壊れ始めている。その予感だけを胸に、二人は、最後の力を振り絞って走り続けた。
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都庁のロビーに辿り着いたとき、そこは、すでに静まり返っていた。館内の照明は明滅を繰り返し、非常放送のアナウンスも、意味をなさないノイズと化していた。人の気配は、ほとんどない。避難したのか、あるいは――ほのかは、その先を考えないようにした。
受付カウンターの上には、飲みかけのペットボトルと、開いたままの手帳が、無造作に置かれていた。ここで働いていた誰かが、突然、仕事を放り出さざるを得なかったことを、それだけの光景が、雄弁に物語っていた。
「エレベーターは、期待できないだろうな」
「階段で、上がるしかないですね」
二人は、非常階段へと向かった。展望台のある四十五階まで、上り続ける長い道のりだった。だが、迷っている暇はなかった。ほのかは、白符を握りしめ、宵とともに、一段ずつ、階段を駆け上がっていった。
上へ向かうにつれ、空気の密度が、明らかに変わっていくのを感じた。まとわりつくような重さ。息をするだけで、肺の奥に、粘つく澱が入り込んでくるような感覚があった。
「大丈夫か」
「はい……大丈夫です」
息を切らしながらも、ほのかは、足を止めなかった。汗が、額から頬を伝って落ちる。十階を過ぎるあたりから、非常灯すらも明滅を始め、階段全体が、断続的な闇に沈んだ。二十階を越えると、壁の向こうから、ビル全体が軋むような、低く重い音が、絶え間なく聞こえてくるようになった。まるで、この建造物そのものが、悲鳴を上げているかのようだった。
三十階を過ぎたあたりから、壁や床のあちこちに、黒い染みのような澱が、まるで血管のように浮かび上がっているのが見えた。
「この建物全体が、澱に侵食されている」
「まるで、この場所が、ずっと前から、こうなることを待っていたみたいです」
その言葉を口にした瞬間、ほのかの背筋に、言いようのない悪寒が走った。まるで、何か、途方もなく巨大な意志が、この瞬間をずっと待ち続けていたかのような、そんな予感だった。
四十階を越える頃には、階段の窓ガラス越しに見える都心の景色が、これまでとは、明らかに違う様相を呈していた。本来なら煌々と輝いているはずの高層ビル群が、次々と、その明かりを失っていく。まるで、巨大な生き物が、ゆっくりと瞼を閉じていくかのような、静かで、それでいて、途方もなく恐ろしい光景だった。
遠く、環状線の方角から、車のクラクションが、幾重にも重なり合って響いてきた。信号機の制御を失った交差点で、立ち往生する車列の悲鳴だろう。ほのかは、その音に、拳を強く握りしめた。
「まだ、上か」
「あと少しです」
四十五階に近づくにつれ、階段の先から、これまで感じたことのない、圧倒的な気配が漂ってきた。それは、ただの澱の密度とは、明らかに質が違っていた。もっと、意志を持った、人格を宿した何かの気配。
宵が、階段の踊り場で、一瞬足を止めた。
「宵さん?」
「……この気配」
宵の顔から、血の気が引いていくのが、薄暗がりの中でもはっきりとわかった。
「どうしたんですか」
「まさか、そんなはずは」
宵は、絞り出すように呟いた。ほのかには、その言葉の意味が、まだ理解できなかった。だが、宵の表情に浮かんだ、これまで見たことのない動揺の色に、ほのかもまた、言いようのない不安を覚えた。
「行くしかない」
宵は、そう言うと、再び階段を上り始めた。ほのかは、その背中を追いながら、最後の踊り場で、宵の腕にそっと触れた。
「宵さん。何があっても、隣にいます」
宵は、一瞬、驚いたようにほのかを振り返った。その目には、まだ拭いきれない動揺が残っていたが、彼は、小さく頷いた。
「……お前も、無茶はするな」
「善処します」
以前、宵に言われた言葉を、そのまま返す。宵は、微かに、口の端を緩めた。それが、これから起きるであろう激闘を前にした、二人にとっての、ささやかな決意の共有だった。
展望台へと続く最後の扉に、ほのかは、手をかけた。
扉の向こう側から、圧倒的な気配が、二人を待ち構えていた。




