第8章 反転する光と影
白符を握りしめたまま、ほのかは交差点の中心へと駆け込んだ。
迫りくる黒い触手を前に、意識のすべてを研ぎ澄ませる。呼吸を整える暇もなかった。倒れている人々を囲むように、頭の中で結界の輪郭を描く。いつもの五芒星とは比べ物にならない大きさだった。それでも、やらなければ、目の前で倒れていく人々を守れない。
「――祓う!」
叫ぶと同時に、地面に光の線が走った。交差点全体を囲むように、巨大な光の輪が広がっていく。触手の一本が輪に触れ、弾かれて霧散した。手応えはある。だが、それも束の間だった。
頭上の黒い靄から、次々と新たな触手が生まれ、光の輪に襲いかかる。一本、二本と弾き返すたびに、ほのかの体力は目に見えて削られていった。額から汗が噴き出し、腕が震え始める。それでも、輪を維持し続けなければ、輪の内側にいる何十人もの人々が、次々と精神溶解の犠牲になってしまう。
「くっ……」
触手の攻撃は、止まる気配がなかった。悪意の供給源は、今この瞬間もどこかで拡散され続けているあの告発文だ。誰かが投稿を目にするたびに、誰かがコメント欄に罵倒を書き込むたびに、澱は際限なく膨れ上がっていく。個人の力で祓いきれる量を、とうに超えていた。
結界の光が、少しずつ揺らぎ始めた。喉の奥から、鉄の味がこみ上げてくる。ほのかは口元を拭った。手のひらに、赤い染みが広がっていた。
視界の端が、ちかちかと明滅する。意識が遠のきかけるたびに、ほのかは奥歯を噛みしめて踏みとどまった。祖母が教えてくれた呼吸法を、頭の中で繰り返す。吸って、止めて、細く長く吐く。それだけのことが、今はどうしようもなく難しかった。
脳裏に、輪の内側にいる人々の顔が浮かんだ。名前も知らない、見ず知らずの人たちだ。それでも、彼らにも、それぞれの生活があり、帰りを待つ誰かがいるはずだった。母がある日突然いなくなったとき、自分がどれほど、その不在に苦しめられたか。同じ苦しみを、これ以上、誰にも味わわせたくなかった。
それでも、退くわけにはいかなかった。
「まだ……」
膝が崩れかけるのを、ほのかは奥歯を噛みしめて堪えた。輪の内側で、意識を失いかけている老人と、その手を握りしめる若い母親の姿が目に入る。あの人たちを、見捨てるわけにはいかない。たとえ自分の身がどうなろうとも。
視界が霞み始めた、その時だった。
「――退け」
低い声とともに、ほのかのすぐ隣に、黒い影が降り立った。宵だった。彼はほのかの様子を一瞥し、舌打ちを漏らす。
「限界だろう、それは」
「まだ……大丈夫、です」
「大丈夫な人間が、口から血を流すか」
宵は苦々しく言い捨てると、黒符を取り出し、左腕に押し当てた。皮膚が黒く染まり、異形へと変貌していく、あの禍々しい過程が、再びほのかの目の前で始まった。
「なぜ……」
「うるさい。理由なんてない。ただ、お前が無様に潰れるのを、指を咥えて見ているのも、寝覚めが悪いだけだ」
素っ気ない言葉だったが、その声には、これまでとは違う何かが滲んでいた。ほのかは、それ以上何も言わず、ただ小さく頷いた。
「お前の光を、俺の影に繋げ。一人でやるより、まだましになる」
「繋げる、って」
「考えるな。感じろ」
宵はそう言うと、異形と化した左腕を、ほのかの結界の輪に触れさせた。その瞬間、ほのかは自分の白い光が、宵の黒い影と混ざり合っていく感覚を味わった。これまで経験したことのない感覚だった。二つの相反する術が、互いを打ち消し合うのではなく、まるで補い合うように、一つに溶け合っていく。
光の輪が、これまでにない輝きを放ち始めた。金色と漆黒が渦を巻き、まるで昼と夜が同じ空に同居しているかのような、奇妙で美しい光景だった。二つの色は反発することなく、互いの輪郭をなぞるようにして絡み合い、頭上の黒い靄に向かって、螺旋を描きながら立ち上っていく。触手が次々とその渦に呑み込まれ、悲鳴のような音を立てて消滅していった。
ほのかは、自分の中を巡る力の質が、明らかに変わっていくのを感じていた。これまで一人で編んできた術は、どこか一方通行で、押し出すだけの力だった。だが今、宵の影と混ざり合った光は、押し出すと同時に、相手の力を受け止め、絡め取っていく。まるで、二人で一つの呼吸をしているかのような感覚だった。
「今だ」
宵の声に、ほのかは残りの力を振り絞り、意識を集中させた。二人の術が完全に重なった瞬間、空間を満たしていたノイズのような雑音が、嘘のようにぴたりと止んだ。街中に鳴り響いていた無数の通知音が、一斉に消える。頭上の黒い靄が、内側から崩れるように霧散していき、やがて、跡形もなく消え去った。
交差点に、静寂が戻った。
倒れていた人々の何人かが、ゆっくりと意識を取り戻し始める。困惑した表情で周囲を見回し、何が起きたのかわからないまま、互いに顔を見合わせている。少し離れた場所では、すでに救急車のサイレンが近づいてきていた。
ほのかは、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。全身から力が抜け、指先一本動かすのもやっとだった。それでも、目の前の光景を見て、口元に小さな笑みが浮かぶ。守れた。少なくとも、これ以上の犠牲は出さずに済んだ。
「……大丈夫か」
宵が、異形から戻った左腕で、ほのかの肩を支えるように手を伸ばした。その仕草に、ほのか自身が一番驚いていた。
「宵さん……ありがとう、ございます」
「礼を言われる筋合いはない。お前が無茶をしなければ、俺が出張る必要もなかった」
素っ気ない口調は変わらなかった。だが、支えてくれる腕の力は、思いのほか優しかった。
遠巻きに、事態を収拾しようとする警備員や、駆けつけた警察官の姿が見える。この騒ぎも、明日には「集団的な体調不良」か「通信障害によるパニック」として、当たり障りのない言葉に置き換えられて報道されるのだろう。真実を知るのは、ここにいる二人だけだった。
ほのかは、荒い息を整えながら、ふと視線を巡らせた。まだ意識を取り戻さない人が、何人か、地面に横たわったままだった。輪の外側にいて、結界の恩恵を十分に受けられなかった人々だ。
「あの人たち……」
「見ての通りだ」
宵の声が、急に冷たくなった。ほのかは、その変化に戸惑いながら、彼の視線の先を追った。地面に横たわる人々のうち、何人かの様子が、他とは明らかに違っていた。意識を失ったまま、瞳が虚ろに開いたまま、ぴくりとも動かない。
「深く澱に呑まれすぎた人間は、戻らない」
宵は、抑揚のない声でそう言った。その言葉の意味を理解した瞬間、ほのかの背筋に、冷たいものが走った。
「戻らない、って……」
「言葉通りの意味だ」
宵は立ち上がり、その人々の方へと歩き出そうとした。その足取りには、これまでにない、ある種の迷いのなさがあった。ほのかは、震える手で彼のコートの裾を掴んだ。
「宵さん、まさか」
宵は、振り返らないまま、短く答えた。
「今は何も言うな。お前には、まだ早い話だ」
その声には、拒絶とも、庇護とも取れる、複雑な響きがあった。ほのかは、掴んだ手を離すことができなかった。目の前で守った命の隣に、今まさに、何か決定的なことが起ころうとしている。その予感だけが、ほのかの胸の中で、警鐘のように鳴り響いていた。




