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朝焼けの境界線 〜表裏の陰陽師〜  作者: 久遠 睦


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第二部 交わる境界線   第7章 ノイズの街、スクランブルの罠

その日の夕方、渋谷のスクランブル交差点は、いつも通りの喧騒に包まれていた。

「結城さん、お先に失礼しますね。今日も一人で見回りですか?」

 事務所を出たところで、有紀が軽い調子で声をかけてきた。ほのかは曖昧に微笑み返す。

「うん、まあ、ちょっと寄り道して帰ろうかなって」

「気をつけてくださいね。最近、変な事件多いから」

 有紀はそう言い残し、駅とは反対方向へ歩いていった。その後ろ姿を見送りながら、ほのかは、ここ数日感じ続けていた予兆のことを思い出していた。澱の質が変わりつつある。何かが、この街の底で膨らみ続けている。その感覚は、日を追うごとに強くなっていた。

 仕事帰りのほのかは、駅へ向かう人波に混じっていた。歩行者信号が青に変わり、四方から人々が一斉に交差点へと吐き出されていく。巨大なビジョンが、耳障りなほどの音量でコマーシャルを流し、その下を無数の傘や鞄が行き交う。ごくありふれた、平日の帰宅風景だった。

 だが、交差点の真ん中に差し掛かったとき、ほのかはふと、周囲の空気が微かに軋むのを感じた。

 最初は、気のせいだと思った。ここ最近、澱の密度の変化に敏感になりすぎているせいかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、ほのかは歩を進めた。

 だが、周りを行き交う人々のスマートフォンが、ほとんど同時に着信音を鳴らし始めたとき、ほのかの直感は、はっきりとした警鐘に変わった。

 一つや二つではない。数十、数百という数の画面が、一斉に、同じ通知を受け取っている。ほのかも思わず自分のスマートフォンを確認した。開いたSNSのタイムラインには、見覚えのないアカウントが投稿した一件の告発文が、恐ろしい速度で拡散されていた。

 内容は、ある人物への誹謗中傷だった。真偽の定かでない噂を、断定的な言葉で並べ立て、感情を煽るように書かれている。すでに数万件のリポストがつき、コメント欄には、罵倒の言葉が滝のように流れ込んでいた。誰が最初に火をつけたのか、その大元をたどることはもう不可能なほど、炎は燃え広がっている。

 周囲の人々が、次々と足を止め、画面に見入り始めた。誰もが無言で、指先だけを忙しなく動かしている。まるで、群衆全体が、一つの巨大な生き物の神経系に取り込まれていくかのようだった。

「――噓」

 ほのかは、頭上を見上げた。

 交差点を囲むビル群の隙間、電光掲示板の光が乱反射する空間に、黒い靄が滲み始めていた。これまで見てきたどの澱とも、比較にならない規模だった。あの日、代々木公園で遭遇した蜘蛛型の歪みが、子供の悪戯のように思えるほどの密度で、悪意が空間そのものに満ちていく。

 悲鳴が上がったのは、その直後だった。

 交差点の端で、一人の女性が、突然その場に崩れ落ちた。手からスマートフォンが滑り落ち、瞳から光が消えていく。次いで、少し離れた場所で、スーツ姿の男性が同じように膝から崩れる。さらに、信号待ちをしていた学生服の少年が、握りしめたスマートフォンの画面を見つめたまま、糸の切れた人形のようにその場に頽れた。周囲の人々が異変に気づき、悲鳴と怒声が入り混じり始めた。だが、動揺した人々の何割かは、状況を理解するより先に、手元の画面を確認しようとする。何が起きているのか調べようとして、あるいは誰かに助けを求めようとして開いたその画面こそが、次なる犠牲者を呼び込んでいるのだと、誰も気づいていない。

 澱は、もはや個々の悪意の集合体ではなくなっていた。数千、数万という人間の意識が同時に接続され、増幅し合う様子は、まるで巨大な回路がショートを起こしているかのようだった。頭上の黒い靄が、渦を巻きながら急速に肥大化していく。悲鳴、怒声、倒れる音、鳴り続ける通知音――あらゆる音が入り混じり、交差点全体が、一つの巨大な悲鳴そのものと化していくようだった。

「みんな、離れて!」

 ほのかは叫んだが、声はすぐに雑踏にかき消された。誰も、目に見えない脅威に気づいていない。人々はただ、突然倒れていく周囲の人間に困惑し、パニックに陥っていくだけだった。

 このままでは、被害は交差点全体、いや、渋谷駅周辺のすべてに広がりかねない。ほのかは懐から白符を取り出しながら、素早く周囲の状況を見渡した。これほどの規模の澱を、通常の五芒星で抑え込めるとは、正直なところ思えなかった。それでも、何もしないという選択肢はなかった。

「よせ」

 背後から、低い声がかかったのは、その時だった。

 振り返らなくても、誰の声かはすぐにわかった。ほのかは、驚きと安堵の入り混じった表情で、宵を見た。彼は雑踏の中に立ち、これまでと変わらぬ、感情の薄い目で頭上の靄を見上げていた。

「宵さん、どうして、ここに」

「お前と同じだ。妙な気配を辿って来たら、これだった」

 宵は短くそう答えると、視線をほのかに戻した。その目に、これまでにはなかった鋭さが宿っていた。

「これは、お前が一人で手を出していい規模じゃない。下がれ」

「下がれって言われても、目の前で人が倒れてるんです。放っておけません」

「放っておけとは言っていない。俺が対処する。お前は民間人を誘導しろ」

 宵の口調は、有無を言わさぬものだった。だが、ほのかは首を横に振った。

「一人でこの規模を相手にするつもりですか。それこそ無茶です」

「無茶かどうかは、俺が決める」

「私も、陰陽師です。見て見ぬふりなんて、できません」

「先週、俺に頭を下げてまで頼ってきたお前が、今度は俺の指図を聞かないのか」

「頼ることと、指図されることは、違います」

 ほのかは、宵の目をまっすぐに見返した。恐れがなかったわけではない。それでも、ここで退けば、目の前で倒れていく人々を見捨てることになる。それだけは、どうしてもできなかった。

 宵の眉間に、深い皺が寄った。だが、それ以上言葉を継ぐ間もなく、頭上の黒い靄が、ひときわ大きく脈動した。まるで、何かが今まさに生まれ出ようとしているかのように。次の瞬間、靄の中心から幾筋もの黒い触手のようなものが、交差点全体に向かって伸び始めた。

「来る……!」

 ほのかは咄嗟に、近くにいた老齢の男性の腕を掴み、その場から引き離した。触手の一本が、彼が立っていた場所を掠め、アスファルトに深い亀裂を刻む。悲鳴が四方から上がり、群衆は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始めた。

「宵さん、あれを止めないと、もっと被害が」

「わかっている」

 宵はすでに、黒符を取り出していた。だが、その表情には、これまでにない緊張の色が滲んでいた。この規模の澱を、たとえ影の式神を用いても、一人で完全に喰らい尽くせるかどうか、彼自身も測りかねているようだった。

 ほのかは、迷わず白符を構えた。

「私も、やります」

「勝手にしろとは言ったが、死ねとは言っていない」

 宵が苦々しく吐き捨てた、その時だった。頭上の靄が、これまでで最大の脈動を見せ、無数の黒い触手が一斉に交差点全体へと降り注ぎ始めた。逃げ惑う人々の悲鳴が、耳をつんざくほどに膨れ上がる。

 ほのかは、迷いを振り切るように前へ踏み出した。

「みんなを、守らないと」

 宵の制止の声を背に受けながら、ほのかは交差点の中心へと駆け出した。白符を掲げ、意識のすべてを集中させる。目の前に迫る無数の黒い触手を前に、ほのかは、これまでで最大の結界を、たった一人で展開しようとしていた。


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