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朝焼けの境界線 〜表裏の陰陽師〜  作者: 久遠 睦


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第6章 一人きりの答え合わせ

それから一週間、ほのかは相変わらず、夜の街を一人で歩き続けていた。

 仕事を終え、着替え、白符を懐に忍ばせて、街に溶け込む澱を祓う。淡々とした作業を繰り返すうちに、身体の芯に、重い疲労が澱のように溜まっていくのを感じる。祓っても、祓っても、翌晩にはまた同じだけの量が生まれている。宵の力を借りられなかった今、その事実だけが、以前にも増して重くのしかかっていた。

 地下の暗がりで浴びせられた言葉が、まだ耳の奥に残っている。

「都合よく運命だなんだと言い出すのは、いつだって表の人間だ」

 あの夜以来、ほのかは何度も自分に問い直していた。自分は、本当に運命だと信じて宵のもとへ向かったのだろうか。それとも――ただ、誰かと一緒に戦いたかっただけなのではないか。

 思えば、ほのかはずっと一人だった。

 母は、ほのかがまだ小学生の頃、ある日突然、家からいなくなった。仕事に出かけると言って玄関を出たまま、二度と戻らなかった。警察には届けを出したが、目立った手がかりも見つからないまま、いつしか捜索は打ち切られた。祖母は、母のことについて多くを語らなかった。ただ、「あの子は、あの子の役目を果たしに行ったのよ」とだけ、一度だけ、ぽつりと呟いたことがある。子供だったほのかには、その言葉の意味がわからなかった。今でも、正確なところはわからないままだ。

 残された祖母に育てられ、その祖母も、ほのかが高校三年の冬に息を引き取った。それからは、ずっと一人だった。表の世界では、仕事をこなし、有紀のような同僚と笑い合い、それなりに満たされた日々を送っている。だが夜になれば、誰にも打ち明けられない仕事を、たった一人でこなさなければならない。誰かに労われることも、感謝されることもない。ただ、街の平穏を守るためだけに、闇の中に消えていく。

 そんな生活を、もう八年近く続けている。

 だから、あの夜、闇を裂いて現れた宵の姿を見たとき、ほのかの中で何かが疼いたのだろう。自分と同じように、誰にも知られず、誰にも労われず、一人で重荷を背負っている誰か。その存在を知った瞬間、心のどこかで、「もう一人にならなくていい」という願いが、無意識のうちに芽生えてしまったのかもしれない。

 それを、都合よく千年前の預言と結びつけて、運命だと決めつけてしまった。

 宵が反発したのは、当然だったのかもしれない。

 ほのかは、ビルの谷間を歩きながら、ため息をついた。夜風が頬を撫でる。今夜もまた、澱を探して歩く。ただそれだけの、変わらない夜。

________________________________________

 その日の昼休み、事務所の休憩スペースで、有紀がいつものように隣に座った。

「結城さん、最近ちょっと元気ないですよね。寝不足です?」

「あ……うん、ちょっとね。夜、眠りが浅くて」

「わかります。私も最近、変なニュースばっかりでソワソワしちゃって。あ、そういえば、結城さんって彼氏とかいるんですか? いつも聞きそびれてたんですけど」

 唐突な質問に、ほのかは一瞬言葉に詰まった。

「いない、かな。……あ、でも、最近、ちょっと気になる人はいるかも」

 口にしてから、ほのか自身が驚いた。宵のことを、そんな風に意識していたつもりはなかった。だが、口をついて出た言葉は、思いのほか素直だった。

「えっ、なんですかそれ、詳しく!」

 有紀が身を乗り出してくる。ほのかは慌てて手を振った。

「ううん、違うの、そういうんじゃなくて……その人、ちょっと訳ありというか。うまく言えないんだけど」

「訳あり系イケメン、いいじゃないですか」

 有紀は勝手に盛り上がっている。ほのかは苦笑しながら、これ以上は踏み込まれないよう、話題を逸らした。有紀に、本当のことを話せるはずもない。夜の顔のことも、宵のことも、千年前からの因縁のことも。誰かに打ち明けたい気持ちが、胸の奥でちりちりと疼くのを感じながら、ほのかはそれを笑顔の下に押し込めた。

 こういう瞬間が、一番堪える。誰かと繋がっているようでいて、本当に大切な部分では、誰とも繋がれていない。それが、ほのかがずっと生きてきた「表」の世界の実感だった。

________________________________________

 仕事を終え、着替え、白符を懐に忍ばせて、ほのかは再び夜の街へと出た。小さな澱をいくつか祓ったあと、ほのかは一度立ち止まり、スマートフォンを取り出した。地図アプリを開くと、そこにはまだ、あの区画――宵が拠点にしていると思われる、老朽化した雑居ビルの位置が、マークとして残っている。

 消してしまおうか、と一瞬思った。

 自分の勝手な思い込みで、彼の領域に土足で踏み込んでしまった。もう二度と近づくべきではないのかもしれない。

 それでも、指はマークを削除するボタンには伸びなかった。

 ほのかは、画面を閉じ、代わりに夜空を見上げた。ビルの合間から見える空は狭く、星は数えるほどしか見えない。それでも、確かにそこには、変わらない夜空が広がっていた。

「私は、間違っていたのかな」

 誰に問うでもなく、ほのかは呟いた。答えが返ってくるはずもない。

 ただ、こうも思う。仮に、あの断片的な預言が、宵のことを指していなかったとしても。仮に、二人の出会いが千年前からの必然などではなく、ただの偶然だったのだとしても。

 それでも、あの夜見た宵の目の奥の、疲れた色は、噓ではなかったはずだ。運命という言葉を使わなくても、あの重荷を、誰かが分かち合うべきだという思いは、間違いではないはずだった。

 問題は、その思いを、彼にどう伝えればいいか、ほのかにはまだわからないということだった。

________________________________________

 その夜も、澱の密度は、これまでと変わらず高かった。むしろ、日を追うごとに、増している気さえする。

 ほのかは、渋谷の中心部に近い雑居ビルの隙間で、いつもより明らかに濃い澱の塊を見つけた。人の形すら成していない、ただの黒い染みのようなそれを、白符で慎重に祓いながら、ふと違和感を覚える。

 澱の中に、微かに、規則的な光の明滅が混じっていた。あの、蜘蛛型の歪みの体表で見たのと、よく似たリズム。誰かの投稿が、爆発的に拡散していくときの、あの独特の波形。

 ほのかは、思わず眉をひそめた。この一週間、街を巡るたびに、似たような予兆をいくつも見てきた。まだ歪みとして実体化するには至っていないものの、澱の「質」そのものが、以前とは違う何かに変わりつつあるように感じられる。

 それは、まるで、街全体が、大きな爆発の予兆を静かに溜め込んでいるかのようだった。

 もしまた、あの夜と同じ規模の――いや、それ以上の歪みが現れたら。自分一人の力で、本当に食い止められるのだろうか。

 ほのかは、白符を握る手に、自然と力を込めた。宵の助けを借りることを、もう諦めるべきなのかもしれない。彼の言う通り、光の世界と裏の世界は、交わるべきではないのかもしれない。

 それでも――と、ほのかは思う。

 この街のどこかで、今この瞬間も、悪意が積み重なり続けている。それを止められる可能性が、ほんの少しでもあるのなら、自分はまだ、諦めるわけにはいかなかった。

 祓い終えた澱の残滓が、風に溶けるように消えていく。ほのかは、その様子を見届けてから、再び夜の街を歩き出した。

 東の空には、まだ夜明けの気配はない。だが、遠くのビルの隙間から、ほんの微かに、次の朝焼けを予感させる薄明るさが、滲み始めているような気がした。

 まだ何も解決していない。宵との距離は縮まるどころか、むしろ遠ざかったようにさえ感じる。それでも、ほのかは足を止めなかった。

 この街を守るための一人きりの夜は、まだしばらく続きそうだった。

 だが、その静かな均衡が、これから間もなく、大きく崩れることになるとは、この時のほのかは、まだ知る由もなかった。


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