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朝焼けの境界線 〜表裏の陰陽師〜  作者: 久遠 睦


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第5章 もしかして、の距離

翌日から、ほのかは仕事の合間を縫って、宵の居場所を探し始めた。

 といっても、手がかりらしい手がかりは何もない。名前と、闇に溶けるように現れて消えたという事実だけ。普通に考えれば、探しようがなかった。

 だが、ほのかには、一つだけ心当たりがあった。

 昼休み、ノートパソコンを広げ、これまで自分が祓ってきた澱の発生場所を、地図アプリに一つずつ打ち込んでいく。日付、時間帯、規模。ウェブデザイナーとして日々扱っている、アクセス解析やヒートマップの作り方と、やっていることは大差なかった。人の行動には、必ず傾向がある。悪意の吹き溜まりにも、きっと同じことが言えるはずだった。

「結城さん、それ何のデータですか」

 有紀がふと覗き込んできて、ほのかは慌てて画面を隠しかけた。

「あ、ちょっと、個人的な……街歩きの記録、みたいな」

「へえ、意外な趣味」

 有紀はそれ以上追及せず、自分のデスクに戻っていった。ほのかは胸を撫で下ろしながら、作業を再開する。

 地図上にプロットされた点を眺めていくと、ある傾向が見えてきた。澱の発生地点は、必ずしも人通りの多い場所と一致しない。むしろ、繁華街のすぐ裏手にある、光の届かない路地や、再開発から取り残された古いビルの周辺に集中していた。表通りの喧騒と、背中合わせの暗がり。

 そして、その中でも一際、澱の密度が高く、かつ発生周期が不規則な一角があった。渋谷と代官山の狭間、老朽化した雑居ビルが数棟だけ取り残された、再開発計画から外れた区画。地図上では空白に近いその場所を、ほのかはしばらく見つめた。

 仕事でクライアントのサイトを分析するとき、いつも同じことを考える。人がどこで立ち止まり、どこで離脱するのか。数字の羅列の裏には、必ず人の心の動きがある。今、目の前の地図に散らばった点も、同じことなのかもしれない。誰かの悪意が集まる場所には、必ず理由がある。そして、その悪意を誰にも知られず処理し続けている誰かがいるのなら、その人物の生活圏は、おのずと澱の少ない――あるいは逆に、他の誰も踏み込まない分だけ澱の濃い、特定の一角に偏るはずだった。

 もし、宵が「裏」の術者として、日常的に澱の処理をしているのだとしたら。彼自身が拠点にしている場所の近くほど、他の誰かに祓われることなく澱が溜まりやすいのではないか。逆説的な推測だったが、ほのかにはそれ以外に手がかりがなかった。何時間もかけて打ち込んだ点の集合が、一つの区画に不自然なほど密集していることに気づいたとき、ほのかは思わず息を止めた。仕事なら、ここで「勝った」と思う瞬間だ。だが今回ばかりは、正しく解析できたことへの高揚よりも、これから起きることへの緊張の方が、はるかに大きかった。

________________________________________

 その夜、ほのかは仕事を終えるとすぐに、地図で目星をつけた区画へと向かった。

 街灯もまばらな路地に足を踏み入れると、日中の賑わいが噓のように、辺りは静まり返っていた。老朽化したビルの壁には、剥がれかけた看板が虚しく揺れている。人の気配は、ほとんどなかった。

 一番奥まった場所に、他よりもひときわ古い雑居ビルがあった。一階の窓はすべて板で塞がれ、入り口のシャッターには、錆と埃が厚く積もっている。だが、その前に立った瞬間、ほのかは肌が粟立つのを感じた。あの夜、公園で感じたのと同じ、空気の密度の違い。

 間違いない。ここだ。

 シャッターの脇、人一人がやっと通れるほどの隙間から、ほのかは中へと足を踏み入れた。埃っぽい空気の奥、階段の下り口があるのに気づく。地下へと続いているらしい。躊躇したのは一瞬だった。ほのかは、震える手で懐中電灯代わりのスマートフォンを取り出し、階段を降りていった。

 地下は、想像していたよりも広い空間だった。かつては何らかの店舗か倉庫だったのだろう、コンクリートの床がむき出しになっている。照明はなく、代わりに、壁際に置かれた古い燭台に、小さな炎がいくつか揺れていた。その炎の光の中に、彼はいた。

 壁に背をもたせかけ、目を閉じている。コートは脱ぎ、黒いシャツ一枚の姿だった。ほのかの気配に気づいているはずなのに、瞼を開けようとしない。

「……ここがわかるとは、思わなかったな」

 やがて、宵はそう言って、ゆっくりと目を開けた。感情の読めない、暗い瞳がほのかを捉える。

「探しました。あの、澱が発生する場所と時間を、記録して……」

「へえ」

 宵はわずかに眉を上げた。それだけだった。感心しているのか、呆れているのか、その表情からは読み取れない。

「何の用だ」

「聞きたいことが、あって」

 ほのかは、深呼吸をしてから、静から聞いた話を、順を追って話し始めた。五芒宮のこと。芦屋静という宮司のこと。そして、千年前の断片的な記録に残されていた、「影を継ぐ者にすべてを委ねよ」という言葉のこと。

 話し終えるまで、宵は一言も口を挟まなかった。表情も変えなかった。だが、話が進むにつれて、その瞳の奥に、ゆっくりと冷たい光が宿っていくのを、ほのかは見逃さなかった。

「それで?」

「あの、それで……もしかしたら、あなたが」

「俺が、その『影を継ぐ者』だとでも言いたいのか」

 宵の声には、これまでよりも明らかに険があった。ほのかは思わず、言葉を詰まらせる。

「決めつけるつもりはないんです。ただ、可能性として」

「くだらない」

 宵は吐き捨てるように言った。「預言だと? そんな都合のいい話は知らない。俺は、俺の家に伝わったやり方で、俺のやるべきことをやってきただけだ。千年前の誰かが何を書き残していようが、俺には関係ない」

「でも、あなたも五芒星のことを知っていました。私の家のことも」

「知っていることと、その預言とやらに従う義理があることは、別の話だ」

 宵は壁から背を離し、ほのかに一歩近づいた。その瞳には、怒りというより、深い倦怠のようなものが滲んでいた。

「都合よく運命だなんだと言い出すのは、いつだって表の人間だ。お前たちは知らないだろうがな、裏の血脈がどれだけの汚れ仕事を、誰にも知られず押し付けられてきたか。それを今さら『千年前からの絆』みたいな綺麗な言葉で括られるのは、反吐が出る」

 その言葉には、ほのかが想像していた以上の、深い痛みが滲んでいた。ほのかは、何も言い返せなかった。

「私は、そんなつもりじゃ」

「つもりがどうであれ、結果は同じだ」

 宵は突き放すように言い、再び壁に背をもたせかけた。

「悪いが、俺はお前と手を組む気はない。光の世界に生きる人間と関わって、いいことなど一つもない。……お前を助けたのも、あの歪みを放っておけなかったからだ。それ以上の意味はない」

「それでも」ほのかは、勇気を振り絞って言葉を継いだ。「あの歪みは、これからもっと増えます。私一人では、もう祓いきれない。あなたの力が、必要なんです」

「必要なら、お前がどうにかしろ。俺には関係ない」

「宵さん」

「話は終わりだ」

 宵はそう言い切ると、目を閉じた。それ以上、何を言っても無駄だということが、その閉ざされた表情から伝わってきた。ほのかは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて、重い足取りで階段を上がった。

 地上に出ると、夜風が頬を撫でた。ほのかは、地下の暗がりを振り返る。あの場所に、彼は一人でいる。誰にも知られず、誰にも感謝されないまま、汚れ仕事とやらを、これからも一人で続けていくのだろう。

 運命だなんだと軽々しく口にしたことを、ほのかは今さらながらに悔いた。宵にとってそれは、綺麗事以外の何物でもなかったのだろう。自分は、彼が背負ってきたものの重さを、何一つ理解していなかった。

 それでも――と、ほのかは思う。

 あの瞳の奥に滲んでいた、深い疲れの色。それを見なかったことにはできなかった。「反吐が出る」とまで言われて、なお心のどこかで彼のことを気にかけている自分に、ほのかは戸惑いすら覚えた。運命だと決めつけたつもりはなかった。それでも、彼にはそう聞こえてしまったのだろう。表と裏の間には、自分が想像していたよりも、ずっと深い溝があるのかもしれない。

 その溝の正体を、ほのかはまだ何一つ知らない。知らないまま、勝手に手を差し伸べようとした自分の浅はかさを、苦く噛み締める。

 ほのかは、静まり返った路地を、一人で歩き出した。振り返らずに歩き続けても、地下の暗がりに残してきた彼の姿は、しばらく頭から離れそうになかった。


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