第4章 千年の断片
その夜以来、ほのかはまともに眠れなくなっていた。
目を閉じるたびに、黒く染まっていく五芒星の光と、闇を裂いて現れた男の姿が瞼の裏に蘇る。宵、と名乗ったあの男の、感情の削げ落ちた声。「お上品な術じゃ、現代の泥は祓えない」――その言葉が、棘のように胸の奥に刺さったまま、抜けてくれなかった。
結城家に伝わる術のことを、なぜ彼は知っていたのか。五芒星を見ただけで、それが「結城の娘」の術だと見抜いたのは、どうしてなのか。
母は、ほのかがまだ小学生の頃、ある日突然姿を消したまま戻らなかった。生きているのか、それとも――考えないようにしてきたことだった。祖母もまた、ほのかが高校生の頃に他界していた。結城家に伝わる知識のほとんどは、口伝としてほのかの中に残っているだけで、体系立てて確かめる術がない。頼れる相手が、他に思い浮かばなかった。
唯一の手がかりは、祖母が生前に一度だけ口にした言葉だった。
「もし、私やお前の母に何かあって、結城の術のことでどうしても答えが欲しくなったら、五芒宮を訪ねなさい。あそこの宮司は、うちと同じくらい古くから、この国の陰と陽を見てきた家系だから」
当時のほのかは、聞き流していた。まさか自分が、その言葉を頼りにする日が来るとは思っていなかった。
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五芒宮は、都内の住宅街の一角に、ひっそりと佇んでいた。表通りからは一本入っただけの場所にあるのに、まるでその区画だけ時間の流れが違うかのように静かだった。鳥居は小さく、社殿も決して立派とは言えない。観光地化された神社のような賑わいはなく、参拝者の姿もほとんど見当たらない。だが、境内に一歩足を踏み入れた瞬間、ほのかは肌が粟立つのを感じた。空気の密度が、明らかに違う。
社務所らしき建物の引き戸を開けると、奥から着物姿の女性が現れた。年齢は四十代半ばか、あるいはもう少し上だろうか。白髪が交じり始めた髪をきっちりと結い上げ、涼やかな目元をしている。女性はほのかを一目見るなり、驚いた様子も見せずに、小さく頷いた。
「結城の血の匂いがする。……ずいぶん久しぶりだこと」
「あの、突然すみません。私は結城ほのかと申します。祖母から、こちらの名前を聞いたことがあって」
「知っています。あなたのお祖母様には、昔お世話になりました」
女性は静かに微笑んだ。「芦屋静と申します。ここの宮司をしております。……その顔、何かに追い詰められている顔ね。上がりなさい」
招かれるまま、ほのかは社務所の奥にある畳敷きの部屋に通された。静が茶を淹れる間、ほのかは昨夜の出来事を、順を追って話した。蜘蛛型の歪みのこと。五芒星が黒く汚染され、砕け散ったこと。そして、闇の中から現れた男――宵のこと。
静は、茶を差し出しながら、表情を変えずに聞いていた。ただ、「宵」という名を口にした瞬間、その目に、わずかな翳りが差したのを、ほのかは見逃さなかった。
「その男を、ご存知なんですか」
「……名前だけは、聞いたことがあります」
静はそう答えたきり、しばらく黙って湯呑みを見つめていた。ほのかは、急かすことなく待った。この人が、意味もなく言葉を濁す人間ではないことは、その佇まいから伝わってきた。
「ほのかさん。あなたのお家、結城が守ってきた術のことは、どこまでご存知?」
「五芒星のことと、初代が安倍晴明公だということくらいしか。祖母からは、それ以上のことはあまり」
「そう。……それなら、少しだけ、お話ししましょう。すべてではないけれど」
静は湯呑みを置き、姿勢を正した。
「安倍晴明公は、表向き、朝廷に仕える陰陽師として名を残しています。国の吉凶を占い、人々を護る、清らかな術者として。……けれど、それは半分だけの真実です」
「半分、というのは」
「晴明公は、光の術だけでは救えないものがあることを、誰よりも知っていた人でした。人の悪意、妬み、恨み――そういうものの中には、表舞台に出すわけにはいかない、あまりに醜く、あまりに深いものもある。それを浄化するのではなく、喰らい、消し去るための術を、晴明公はもう一つ、密かに用意していたのです」
静の声は、淡々としていたが、一言一言に重みがあった。
「その裏の術のために、晴明公が興したもう一つの血脈がある……ということですか」
「そう考えて、間違いではないでしょう」
静はそこで一度言葉を切り、奥の棚から古びた木箱を取り出した。慎重な手つきで蓋を開けると、中には、経年劣化で端がひどく傷んだ一枚の巻物が納められていた。
「これは、うちに伝わる記録の写しです。原本ではありません。原本は、もっと厳重な場所に……いえ、それはいい」
静は巻物を丁寧に広げた。墨の文字は、ところどころ滲み、あるいは虫食いによって欠けており、判読できる部分の方が少ないくらいだった。ほのかは、身を乗り出してその文字を追った。
断片的に読み取れる文言は、こうだった。
『……我が裏に負わせし業、いつか……表の術届かぬ……歪み現れし時……』
『……我が影を継ぐ者に……すべてを委ねよ……』
それだけだった。前後の文脈も、誰に向けた言葉なのかも、この断片からは読み取れない。ほのかは何度も目を通したが、読めば読むほど、これがすべての答えではなく、あくまで欠片に過ぎないことを思い知らされた。
「これで、全部なんですか」
「これで全部です。原本がどこにあるのか、私も詳しくは存じません。うちに伝わっているのは、この写しだけ」
静は巻物を再び丁寧に巻き戻しながら、続けた。
「ただ、これだけは言えます。晴明公は、いつか現代のような時代が来ることを、千年前から見越していたのでしょう。表の術だけでは対処できない歪みが現れる時代が来ると。……そしてその時のために、影を継ぐ者にすべてを託す、と」
「影を継ぐ者……それって」
ほのかの頭に、自然と昨夜の男の姿が浮かんだ。闇を裂いて現れた、黒いコートの男。左腕を異形に変え、歪みを一瞬で喰らい尽くした、あの圧倒的な力。
「まさか」
ほのかがそう呟くと、静は静かに、しかしはっきりと首を横に振った。
「早計に結びつけない方がいい。この記録には、名前も、時代も、何一つ書かれていません。影を継ぐ者が、あなたの出会った宵という男を指すのかどうか、それは誰にも断言できないことです」
「でも……偶然にしては」
「世の中には、偶然と呼ぶには出来過ぎている巡り合わせが、たしかにあります。けれど、それを『運命だ』と決めつけて動くのは危うい。あなたはまだ、その男のことを何も知らないのですから」
静の言葉は、優しくはあったが、はっきりとした戒めでもあった。ほのかは、逸る気持ちを抑えるように、湯呑みをそっと両手で包んだ。
「静さんは、宵さんのことを、どこまでご存知なんですか」
「私が知っていることも、多くはありません。……ただ、裏の血脈を継ぐ者たちが、代々どれほどの重荷を背負ってきたか、その一端だけは知っています」
静の目に、再びあの翳りが差した。今度は、はっきりとした憂いの色だった。
「彼らは、表の世界に一切姿を見せず、誰にも感謝されることなく、誰よりも醜い澱を処理し続けてきました。その代償が、決して軽いものではないことも」
「代償、というのは」
「それは、今のあなたが知る必要のあることではありません」
静はそう言って、話を切り上げるように立ち上がった。それ以上、この件については語る気がないことが、その所作から伝わってきた。ほのかも、これ以上踏み込むべきではないと感じ、口を噤んだ。
「ほのかさん。今夜わかったことは、あくまで断片です。すべてを急いで理解しようとしないこと。……ただ、一つだけ覚えておきなさい」
「はい」
「この千年、表と裏は、決して交わることのない道を歩んできました。もしその道が、今、交わろうとしているのだとしたら――それは、喜ぶべきことであると同時に、相応の覚悟を要することでもあります」
静の言葉の重さに、ほのかはただ頷くことしかできなかった。
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五芒宮を後にしたほのかは、日が傾き始めた住宅街を、一人歩いた。
断片的な預言。影を継ぐ者。すべてを委ねよ、という言葉。それが、宵のことを指しているのかどうか、確たる証拠は何もない。静の言う通り、早計に結びつけるべきではないのだろう。
それでも、ほのかの頭からは、あの闇の中で見た男の姿が離れなかった。感情の削げ落ちた声。異形と化した左腕。それでいて、一瞬だけ瞳の奥に滲んだ、疲れたような色。
もしかして。
その二文字だけが、確信にも似た重さで、ほのかの胸の奥に静かに沈んでいった。




