第3章 深淵からの黒符
目の前の暗闇が、音もなく縦に裂けた。
まるで、夜そのものに刃を入れたかのようだった。裂け目の奥から、闇よりもなお昏い何かが滲み出し、次の瞬間には人の形を成していた。黒いコートの裾が、風もないのに揺れている。長身の男だった。街灯の光さえ避けるように立つその姿は、輪郭だけがやけに鮮明で、それ以外のすべてが影に溶けているように見えた。
ほのかは、泥に沈みかけた身体のまま、その男を見上げることしかできなかった。
男は、蜘蛛型の歪みへと視線を向けた。表情は変わらない。恐怖も、驚きも、そこには一切なかった。むしろ、路傍の石でも見るような、無関心に近い目だった。
「――邪魔だ」
低く、感情の削げ落ちた声だった。男が右手を懐に差し込み、一枚の符を取り出す。ほのかが持つ白符とは、色からして違った。墨よりも濃い、闇そのものを紙に写し取ったかのような、黒い符。表面には、見たこともない紋様が、蠢くように浮かんでは沈んでいる。
男はその黒符を左の掌に押し当てた。
次の瞬間、ほのかは息を呑んだ。
男の左腕が、変貌していく。皮膚が黒く染まり、袖の中で肉が波打つように蠢動し、腕そのものの輪郭が歪んでいく。指先が伸び、爪が鉤爪のように反り返り、肘から先が完全に人のものではなくなっていった。それは、影そのものが実体を得たような、異形の腕だった。人ならざる何かが、彼の身体を通して顕現しているような、そんな禍々しさがあった。
蜘蛛型の歪みが、初めてその男に反応した。何十本もの脚を蠢かせ、威嚇するように体表の光点を一斉に明滅させる。だが、男は動じなかった。異形と化した左腕を、まるで挨拶でもするかのように、軽く持ち上げる。
「お前ごときが、何千人分の悪意を背負ったつもりでいるのか知らないが」
男の声には、嘲りとも呆れともつかない響きがあった。
「――所詮、ただの澱だ」
異形の腕が、地を蹴った歪みに向かって伸びる。速すぎて、ほのかの目には残像しか映らなかった。次の瞬間、影の腕は蜘蛛の胴体に深々と食い込んでいた。
そして、喰らい始めた。
それは、破壊と呼ぶにはあまりに異質な光景だった。影の腕が触れた部分から、蜘蛛の身体が、まるで闇に呑まれるように輪郭を失っていく。悲鳴のような、電子ノイズのような音が響き渡り、体表を覆っていた無数の光点が、次々と消えていった。まるで、無数のタブが強制的に閉じられていくかのように。抵抗しようと暴れる脚も、影の腕に触れた瞬間、跡形もなく崩れ落ちていく。
ものの数十秒だった。あれほどの巨躯を誇っていた歪みは、跡形もなく消え去っていた。残されたのは、静まり返った公園の暗がりと、地面にわずかに残る黒い染みだけだった。
男の左腕が、ゆっくりと元の人の腕に戻っていく。皮膚の色が戻り、爪の形が人のものへと収まっていく様を、ほのかは呆然と見つめていた。あれほど禍々しかった腕が、今は何事もなかったかのように、彼の袖の中に収まっている。
拘束していた泥は、歪みが消滅すると同時に力を失い、ほのかの身体を解放していた。だが、ほのかは動けなかった。腰が抜けたように、地面に座り込んだまま、目の前の男を見上げることしかできない。
「……あなたは」
声が震えていた。恐怖なのか、安堵なのか、ほのか自身にもわからなかった。
男は、ようやくほのかの方に視線を落とした。感情の読めない、暗い色の瞳だった。年齢は、ほのかより少し上だろうか。整った顔立ちをしていたが、その表情のどこにも、温かみのようなものは感じられなかった。
「怪我はないか」
問いかけの言葉自体は、気遣いに聞こえなくもなかった。だが、その声色には、心配というよりも、単なる確認作業のような素っ気なさがあった。
「大丈夫……です。あの、助けていただいて」
「礼はいらない」
男は短く遮った。「お前を助けたわけじゃない。あのまま放っておけば、あの歪みはもっと肥大化して、収拾がつかなくなっていた。片付けたのは、それだけの理由だ」
突き放すような言い方だった。ほのかは、地面に手をついて、なんとか立ち上がろうとした。膝に力が入らず、一度よろめく。男はそれを見ても、手を貸そうとはしなかった。
「あなたも……陰陽師、なんですよね。あの符も、あの腕も」
「陰陽師、ね」
男は小さく鼻を鳴らした。それは、笑いとも呼べないような、乾いた音だった。
「お前たちが使うような、綺麗な五芒星の術とは違う。俺のは、もっと薄汚い術だ」
「五芒星を、知っているんですか」
ほのかは思わず、身を乗り出した。結城家の術のことを知る人間に、これまで一人も出会ったことがなかった。この街の誰も知らないはずの家系の名を、目の前の男は当然のように口にしている。
男は答えなかった。代わりに、ほのかが崩れ落ちた場所――さっきまで五芒星が描かれていた地面に目をやった。焼け焦げたような痕跡が、そこにはまだ薄っすらと残っている。
「見ればわかる」男は言った。「お上品な術じゃ、現代の泥は祓えない」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
男はコートの裾を翻し、公園の暗がりへと歩き出した。ほのかは咄嗟に、その背中に向かって声をかけた。
「待ってください! せめて、名前だけでも」
男は歩みを止めなかった。だが、数歩進んだところで、振り返らないまま、短く答えた。
「宵だ」
「宵さん……あの、私は」
「結城の娘だろう。それくらいは、見ればわかる」
その言葉に、ほのかは息を呑んだ。この男は、自分の名字どころか、素性まで知っている。それなのに、自分は彼のことをほとんど何も知らない。
「あなたの家のことは、聞いたこともなくて……」
「聞かなくていい」
宵は初めて、わずかに振り返った。街灯の光が、その横顔に影を落とす。表情は変わらないままだったが、その一瞬だけ、瞳の奥に何か、疲れたような色が滲んだ気がした。
「光の世界に生きる人間と、馴れ合う気はない」
その言葉を最後に、宵の姿は再び闇へと溶けていった。裂け目のように開いていた空間が、音もなく閉じていく。まるで、最初から誰もそこにいなかったかのように、公園には静寂だけが残された。
ほのかは、しばらくその場から動けなかった。
膝にはまだ、泥の感触が残っている。呼吸を整えながら、たった今目にしたものを、頭の中で何度も反芻した。禍々しい異形の腕。歪みを一瞬で喰らい尽くした、圧倒的な力。それでいて、彼自身の言葉には、どこか投げやりで、自分自身をも見下しているような響きがあった。
あれは、恐ろしい力だった。だが同時に、あの目の奥にあった疲れた色が、ほのかの胸に小さな棘のように刺さって離れなかった。
結城の術とは違う、と彼は言った。お上品な術では現代の泥は祓えない、とも。
その言葉が、ただの侮蔑だとは、ほのかには思えなかった。むしろそれは、自分がこれまで一度も向き合ってこなかった何かを、突きつけられたような感覚だった。今夜、ほのかの五芒星は、確かに黒く染まって砕け散った。あれが偶然でないとしたら――もし、あの現象自体が、宵の言う「現代の泥」というものの正体なのだとしたら。
ほのかは、震える手で立ち上がった。コートについた泥を払いながら、公園の入り口を振り返る。街灯の光の下、何事もなかったかのような夜の渋谷が、いつも通りに広がっていた。
だが、ほのかの中では、もう何かが決定的に変わってしまっていた。
結城家に伝わる術のことも、あの男――宵のことも、もっと知らなければならない。そう思いながら、ほのかは重い足取りで、家路についた。
東の空には、まだ夜明けの気配すら見えなかった。




