第2章 五芒星の瓦解
公園の入り口に立った瞬間、ほのかは息を止めた。
いつもと空気が違う。街灯は等間隔に灯っているのに、公園の奥だけが妙に暗い。暗さそのものが、粘度を持っているような感覚だった。夜風は止んでいるはずなのに、木々の梢だけが微かに揺れている。まるで、その場所だけが別の重力に引かれているかのようだった。
スマートフォンをコートのポケットにしまいながら、ほのかは足を踏み入れた。画面には、通知が絶え間なく届いていた。誰かのアカウントが、今夜も燃えている。ここ数日、ずっと同じハッシュタグがタイムラインを賑わせていた。ある企業の不祥事を発端に、無関係な社員個人まで名指しで晒され、心無い言葉が際限なく積み重ねられている騒動だ。ほのかはそれをマナーモードにして、意識を切り替えた。
祖母がまだ健在だった頃、よくこう言われたものだった。
「澱は、誰かひとりの悪意だけでは大きくならない。ひとつの悪意が、別の悪意を呼び、それがまた次を呼ぶ。人の輪が広がれば広がるほど、澱は育つ。だから、群れの悪意ほど恐ろしいものはないのよ」
小学生だったほのかには、その言葉の重みがまだわからなかった。今は、痛いほどわかる。誰かひとりの恨みなら、まだ祓いようがある。だが、何千人もの悪意が一斉に一点へ流れ込むとき、それはもう、個人の感情ではなく、ひとつの巨大な生き物のようになる。
ベンチの向こう、遊具の陰。そこに、それはいた。
最初は、大きな黒い塊にしか見えなかった。だが目を凝らすと、輪郭が脚のように分かれ、蜘蛛の形を成していることに気づく。人の背丈の何倍もある巨躯。表面は絶えず蠢き、街灯の光を吸い込むように黒く濡れていた。よく見れば、その体表には、無数の光る点が明滅している。まるで、通知が届くたびに光るスマートフォンの画面のように。点滅の速度は一定ではなく、時折、堰を切ったように一斉に強く光ることがあった。おそらく、誰かが投稿を拡散させるたびに、その光が増えているのだろう。
澱が、これほどの大きさになるのは初めてだった。
ほのかは思わず、仕事柄染み付いた癖で、光の点滅パターンを目で追ってしまった。等間隔ではない。数秒の沈黙のあとに、突発的な連続点灯が来る。あの波形には見覚えがあった。誰かの投稿が、フォロワー数の多いアカウントに引用され、そこから一気に拡散していくときの、あの独特のリズム。バズる瞬間の、爆発的な伸び方だ。ウェブの解析画面で何百回と見てきた曲線が、今、目の前で怪異の体表として明滅している。そう理解した瞬間、ほのかの背筋に、これまでとは違う種類の寒気が走った。この歪みは、ただ澱を溜め込んでいるのではない。今この瞬間も、リアルタイムで「伸びて」いる。
ほのかは大きく息を吸い、白符を取り出した。両手で挟むように構え、呼吸を整える。長年、祖母から叩き込まれた所作だ。恐怖よりも先に、身体が術式を思い出す。
思い出すのは、初めて祖母の隣で符を掲げた夜のことだった。まだ十歳だったほのかは、手が震えて符をうまく持てなかった。祖母はその手を優しく包み、「怖くていい。怖さを消す必要はない。ただ、怖さに呑まれないようにするの」と言った。あの夜の掌の温もりを、ほのかは今でも覚えている。
「――祓う」
符に力を込めると、地面に淡い光の線が走った。五つの頂点を結び、正確な五芒星が浮かび上がる。晴明紋。千年の間、幾人もの結城の先祖がこの紋で怪異を退けてきた、絶対の結界。光は地面を這い、蜘蛛を囲むように輪を描いていく。
蜘蛛型の歪みが、初めて動いた。
甲高い、電子音にも似た唸り声を上げ、脚の一本をほのかに向けて振り下ろす。結界の光が受け止め、衝撃を弾き返した。地面が小さく揺れ、周囲の街灯が一瞬、まばたきのように明滅する。ほのかは奥歯を噛みしめ、後ろに一歩下がりながらも、符を握る手を緩めなかった。
手応えはある。いつも通りだ。二撃目、三撃目と、脚による攻撃が続く。そのたびに結界がわずかに軋みながらも、ほのかを守り続けた。額に汗がにじむ。それでも、これまでの経験から言えば、あと数分持ちこたえれば、術式を仕上げて完全に封じ込められるはずだった。
だが、次の瞬間だった。
蜘蛛の体表を覆う光る点が、一斉に速く明滅し始めた。まるで、無数のスマートフォンが同時に着信を受けたかのように。歪みが震え、体の奥から新しい澱を吸い上げていく。ほのかには、それが何かを直感的に理解した。
どこかで、今この瞬間も、誰かが誰かを罵る言葉を打ち込んでいる。
その言葉が、電波に乗って、この歪みへと流れ込んでいる。深夜だというのに、悪意の供給が止まる気配はなかった。むしろ、時間が経つほど加速しているようにさえ感じられる。
結界の光の線が、揺らいだ。
五芒星を形作る五つの線のうち、一本の色が変わっていくのを、ほのかは信じられない思いで見つめた。淡い金色だったはずの光が、端から黒く染まっていく。まるで墨を垂らされた水のように、じわり、じわりと。
「――噓、でしょう」
二本目の線が黒く染まる。三本目。ほのかは咄嗟に新しい符を取り出し、追加の術式を重ねようとした。震える指で符を掲げ、失われかけている線を補強するように呪を唱え直す。だが、間に合わない。悪意の供給は止まらない。都市そのものが、無限の燃料を歪みに送り続けている。
この結界は、あくまで「一定量」の悪意を想定して設計されたものだった。祖母の時代、あるいはさらにその前の時代であれば、これほどの速度で澱が供給されることなど、想像すらされていなかっただろう。千年前に組まれた術式は、現代の悪意の総量には、そもそも対応していないのかもしれない――そんな不吉な予感が、ほのかの背筋を這い上がった。
「消えないで……!」
声を上げても、光の劣化は止まらなかった。四本目の線に黒が広がり、最後の一本にも、じわじわとその侵食が及んでいく。ほのかは膝をつきそうになりながら、両手で符を握りしめた。掌に爪が食い込むほどの力だった。
五本すべての線が黒に染まりきった瞬間、五芒星は轟音とともに砕け散った。
光の破片が、黒い霧となってほのかの視界を覆う。耳の奥で、何かが割れるような甲高い音が響いた。次に感じたのは、地面に足が沈む感覚だった。見れば、公園の土が泥のように溶け、ほのかの足首を、膝を、ゆっくりと呑み込んでいく。冷たさはない。ただ、粘つく重さだけが、確実に身体の自由を奪っていく。
「符を……」
伸ばした腕さえ、泥に押さえつけられて動かない。もがけばもがくほど、泥は逆にほのかを引きずり込もうとするように強くまとわりついてきた。呼吸が浅くなる。喉の奥から、悲鳴にもならない声が漏れた。
歪みが脚を持ち上げ、ほのかの真上へと影を落とす。逃げなければと思うのに、身体はぴくりとも動かなかった。悪意の泥は、意識まで塗りつぶそうとするかのように、じわじわとほのかの喉元まで這い上がってくる。視界の端が、黒く滲んでぼやけていく。
ふと、脳裏に浮かんだのは、祖母の顔だった。あの夜、震える自分の手を包んでくれた、温かい掌の感触。「怖さに呑まれないようにするの」――あの言葉を、今この瞬間ほど、切実に思い出したことはなかった。
だが、いくら思い出しても、身体は動かない。祓うための術式も、意識も、少しずつ黒い泥に沈められていく。
視界の端で、蜘蛛の脚がゆっくりと振り下ろされるのが見えた。
もう、間に合わない。
――誰か。
声にならない祈りが、喉の奥で凍りついた。
そう思った瞬間――目の前の暗闇が、音もなく縦に裂けた。




