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朝焼けの境界線 〜表裏の陰陽師〜  作者: 久遠 睦


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第一部 白日の陰り  第1章 日常に潜む歪み

 カーテンの隙間から差し込む光は、まだ夜の色を半分残していた。

 結城ほのかは、目覚まし時計が鳴る三分前に目を覚ます。長年の癖のようなものだ。布団の中でしばらく天井を見つめ、意識がゆっくりと現実に馴染んでいくのを待つ。それから起き上がり、素足のまま窓辺に寄った。

 東の空を見上げる。ビルの稜線の向こうで、藍色が少しずつ橙に溶けていく。夜と朝のどちらでもない、この境界の色が、ほのかは昔から好きだった。何もかもが入れ替わる直前の、束の間の静けさ。

 小さい頃、祖母によく言われたことがある。

「境界の色をよく見ておきなさい。あの色の中に、この世とあの世の隙間が、ほんの少しだけ開くのよ」

 当時は意味がわからなかった。今は、痛いほどよくわかる。夜通し澱を祓い、疲れきった身体で見上げる朝焼けは、いつも祝福のようでもあり、終わりの合図のようでもあった。今日もまた、何事もなく一日が始まる。それだけで、十分にありがたいことなのだと、ほのかは知っている。

 昨夜、この街のどこかで、また澱が生まれたはずだ。

 そのことを頭の隅に置いたまま、ほのかはキッチンに立ち、コーヒー豆を挽いた。香りが小さな1LDKの部屋に広がっていく。トースターの中でパンが色づくのを待つあいだ、スマートフォンでニュースをざっと確認する。芸能人の熱愛報道。値上げのニュース。そして、その合間に挟まるように、小さな見出しがあった。

『都内、意識喪失の通報また増加――専門家「情報過多によるストレス反応」』

 ほのかは指を止めることなく、画面をスクロールした。見慣れた見出しだ。見慣れてしまったことが、少し怖い。

________________________________________

 九時半。渋谷のはずれにある雑居ビルの三階、小さなデザイン事務所「サウス・クリエイティブ」に、ほのかは十分前に到着した。

「結城さん、おはようございます。また一番乗りですか」

 声をかけてきたのは、同期入社の早坂有紀だった。大きめのマグカップを両手で包み、寝ぐせを気にする素振りも見せずに笑っている。有紀はほのかより二つ年下で、入社したての頃から物おじせずに話しかけてくる、事務所の中でも数少ない気心の知れた相手だった。

「有紀こそ、昨日は遅くまで残ってたでしょう。クライアントの差し戻し、終わった?」

「終わりました……終わったんですけど、見てくださいよこれ」

 有紀がノートパソコンの画面をこちらに向ける。修正指示のメールが、几帳面に箇条書きで並んでいた。

『もっと明るく』『でも派手すぎず』『でも印象に残るように』『あと、若い層にも刺さる感じで、でも既存のお客様の年齢層も大事にしてほしい』

「矛盾の三段活用ですよ、これ。四段活用かもしれない」

 ほのかは思わず笑ってしまった。「若い層にも刺さって、でも既存のお客様も大事にする、か。難しいね、それ」

「結城さんなら、こういうのどう捌きます?」

「うーん……たぶん、色数を絞って、代わりに余白の使い方で今っぽさを出すかな。派手さは色じゃなくて、レイアウトのリズムで作るの。安心感は、フォントの選び方で担保する」

 言いながら、ほのかは自分のデスクにバッグを置き、パソコンを立ち上げた。こういう他愛のないやり取りが、ほのかにとっての「表」の世界だった。誰かの依頼に応え、誰かに喜んでもらうために、線を引き、色を選ぶ。単純で、まっすぐで、疲れることはあっても、闇雲に恐ろしいことは何もない世界。

 この仕事を選んだのは、偶然ではなかった。ほのかは、人の心の動きを、形や色や配置に置き換える作業が好きだった。それは、夜の顔とは正反対でありながら、どこか似ている気もしていた。人の心の澱を読み取り、それにふさわしい術を選ぶ。人の心の欲求を読み取り、それにふさわしいデザインを選ぶ。方法は違っても、根っこは同じなのかもしれない。

 午前中はクライアントとのオンライン打ち合わせが二件、午後にはロゴのラフ案を三パターン仕上げる予定だった。忙しない、けれど心地よい忙しさだった。

________________________________________

 昼休み、給湯室のテレビが小さな音量でニュースを流していた。ほのかが弁当を温めに来ると、先に来ていた営業部の男性社員二人が、画面を見ながら小声で話し込んでいる。

『――都内で今月に入り、SNS上での炎上をきっかけに意識を失う事例が相次いでおり、専門家の間では通信環境の変化によるストレス反応との見方が――』

「またこれだ」

 有紀が後ろから追いついてきて、お茶を注ぎながら顔をしかめた。「うちの母親なんて、もう怖くてSNS見ないようにしてるって言ってました。なんか、その、精神溶解でしたっけ。名前からしてもう怖いですよね」

「……そう」

 ほのかは短く答えた。テレビの中のコメンテーターは、これを「集団的なストレス反応」だと、もっともらしい顔で説明していた。専門家らしき肩書きの人物が、脳科学的な仮説をいくつか並べ立てる。デジタルデトックスの重要性。SNS依存との関連性。もっともらしい言葉が、次から次へと画面を流れていく。

「結城さんは、あんまり驚かないですよね、こういうニュース」

 有紀がふと、こちらを見た。悪気のない、純粋な疑問の目だった。

「え……そう、かな」

「なんていうか、いつも冷静っていうか。私なんて最初にニュース見たとき、しばらくスマホ触るの怖かったですもん」

「……単純に、ニュースに慣れちゃっただけだと思う。良くないことなんだろうけど」

 ほのかはそう言って、笑ってごまかした。有紀は「たしかに、慣れって怖いですね」と、あっさり納得して、また別の話題に移っていく。

 だが、ほのかの内側では、笑って流せるほど単純な話ではなかった。

 警察も、行政も、テレビに出る専門家たちも、表向きは「ストレス反応」「情報過多」「集団心因性」という言葉を使い続けている。原因不明の集団昏倒事件が続けば続くほど、説明はより「科学的」で「安心できる」言葉に置き換えられていく。それは、意図的な隠蔽というより、そもそも真実に近づける人間が、この国にほとんどいないからだった。

 知っているのは、ごくわずかしか残っていない、名も明かされぬ家系の人間だけだ。

 結城家は、政府にも、どんな公的な機関にも、その存在を認められたことがない。千年前、初代・安倍晴明の傍らで国を護っていたはずのこの家系は、いつからか歴史の記録から意図的に消され、口伝と誓約だけで受け継がれる、影も同然の存在になっていた。もし今夜、渋谷のどこかで大きな事件が起きたとしても、それは明日のニュースで「通信障害による集団パニック」という、また別のもっともらしい言葉に置き換えられて終わるだろう。

 昼休みの残り時間、ほのかは自分のデスクで弁当を食べながら、窓の外の空を見た。よく晴れた、初夏の空だった。今夜もまた、あの空の下で、澱を祓わなければならない。

________________________________________

 午後八時。有紀たちが「お先に失礼しまーす」と帰っていくのを見送ってから、ほのかはもうしばらくパソコンに向かうふりをして、事務所に一人残った。ロゴ案の微調整をしながら、時計の針が九時に近づくのを待つ。

 九時、施錠を終えて外に出る。渋谷の空気は、昼間とは違う密度を持ち始めていた。ネオンの光、行き交う人々の話し声、居酒屋から漏れる笑い声。表面上は、いつもと変わらない賑やかな夜だ。だがほのかには、その賑やかさの奥に、じわりと沈殿していく別の何かが視えていた。

 一度自宅マンションに戻り、動きやすい黒のコートに着替える。コートの内側には、いくつもの内ポケットが縫い付けてあり、そこに白符の束、墨壺、細筆を収める。この装束は、母の代から受け継がれてきたものだった。祖母の代はもっと簡素な着物姿だったと聞いている。時代に合わせて形は変わっても、中身は変わらない。

 澱――それは、人の悪意が言葉となって撒き散らされ、行き場を失ったまま溶け合い、淀んだものだ。かつては嫉妬や憎悪が、井戸や辻に、ゆっくりと時間をかけて溜まるだけだった。人ひとりが誰かを恨む速度には、限りがあったからだ。

 だが今は違う。指先ひとつで、何百、何千という悪意が、一瞬にして一点に集中する。見知らぬ誰かが、見知らぬ誰かを、画面の向こうから一斉に叩く。その悪意は、距離も時間も飛び越えて、瞬時に降り積もる。澱の生成速度は、ほのかの祖母の時代とは、もはや比べ物にならなかった。

 まずは、いつもの巡回路から。

 道玄坂の裏手、細い路地の突き当たり。ほのかは足を止め、白符を一枚取り出した。壁際に、薄く黒い靄が漂っている。まだ小さい。誰か一人分の、行き場のない悪意の残滓といったところだろう。

 符を軽くかざし、短く呪を唱える。淡い光の線が浮かび上がり、靄を優しく包み込んで消していく。この程度の澱であれば、五分もかからない。ほのかは息をつき、次の場所へと向かった。

 中心街を抜け、公園通りの外れ。ここでも、似たような澱がいくつか見つかった。一つひとつは小さい。だが、その数の多さに、ほのかは改めて危機感を覚える。かつて祖母が一晩に祓っていた澱の数を、今は一時間足らずで超えてしまう。

 スマートフォンをコートのポケットに入れたまま、ほのかは通知音を何度か聞いた。マナーモードにしていても、振動だけは伝わってくる。誰かのアカウントが、今夜も燃えているのだろう。名前も知らない誰かが、名前も知らない誰かを、寄ってたかって傷つけている。数字が増えるたびに、また新しい澱が、この街のどこかに生まれる。

 夜も更けてきた頃、ほのかは代々木公園の入り口に差し掛かった。

 その瞬間、足が止まった。

 いつもと空気が違う。街灯は等間隔に灯っているのに、公園の奥だけが妙に暗い。暗さそのものが、粘度を持っているような感覚だった。今夜巡ってきたどの澱とも、明らかに質が違う。

 白符を握る手に、自然と力がこもる。

 澱の密度は、確実に増している。祓っても、祓っても、翌晩にはまた同じだけの量が溜まっている。まるで、この街そのものが、何かに向けて悪意を溜め込み続けているかのように。

 東の空にはまだ、次の朝焼けの気配すらない。夜はこれからが本番だった。

 ほのかはコートの襟を立て、公園の暗がりへと足を踏み入れた。

 その奥で、何かが蠢いていることに、彼女はまだ気づいていない。


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