第2話「闇を歩く足音」
夜の帳が下りた。
孤児院は静まり返っている。
子供たちは不安を抱えたまま眠りについた。
マリアも礼拝堂で祈り疲れて眠っている。
リリアはベッドから抜け出した。
黒い粗末な服を身にまとう。
窓枠に足をかけた。
夜風が冷たく頬を撫でる。
彼女は音もなく外へ飛び降りた。
膝を柔らかく使って着地の衝撃を殺す。
枯れ葉の落ちる音さえしなかった。
闇夜に小さな影が溶け込む。
街の石畳を走る。
靴底が地面に触れる瞬間を精密に制御する。
骨格の隙間を縫うような特殊な歩法だ。
前世で極めた技術である。
暗殺者としての記憶が身体を動かしていた。
◆ ◆ ◆
夜の街は静かだった。
酔っ払いの声が遠くで聞こえる。
リリアは路地裏の影を縫って進む。
月明かりを避けて建物の隙間を抜けた。
バルドの屋敷が見えてくる。
高い石造りの塀がそびえ立っている。
鉄格子の門には鍵がかかっていた。
警備の男たちが松明を持って巡回している。
リリアは壁の影に身を潜める。
呼吸を深く静かに整えた。
男たちの足音の規則性を測る。
視線が交差する死角を見極める。
リリアは地面を蹴って跳躍した。
高い壁のわずかな凹凸に指をかける。
石の冷たい感触が指先に伝わる。
腕力だけで身体を引き上げた。
音もなく敷地内へ侵入する。
芝生の上に静かに着地した。
屋敷の壁に張り付く。
二階の窓に明かりが灯っていた。
バルドの書斎だろう。
リリアは雨樋を掴んだ。
軽やかな身のこなしで二階へ登る。
窓枠に手をかける。
鍵は開いていた。
隙間から室内の様子をうかがう。
バルドが巨大なマホガニーの机に向かっていた。
彼は羽ペンを走らせている。
顔には欲深い笑みが浮かんでいた。
インクと古い紙の匂いが漂ってくる。
リリアは窓を静かに押し開ける。
部屋の中に滑り込んだ。
絨毯の毛足が足音を飲み込む。
バルドは気づいていない。
リリアは彼の背後に回る。
息を潜め心音の響きすら抑え込む。
彼女は冷ややかな視線を送った。
部屋の温度が急激に下がったように感じられる。
バルドの首筋に冷や汗が浮かんだ。
彼は羽ペンを止める。
背後の異変に本能で気づいた。
ゆっくりと振り向く。
そこに無表情な幼女が立っていた。
バルドは目を大きく見開く。
喉の奥で息を呑む音が響いた。
悲鳴を上げようと口を開く。
リリアは素早く動いた。
バルドの視界から一瞬で消える。
彼の背後に回り込んだ。
小さな手が彼の首筋に触れる。
動脈のすぐ横の急所を的確に押さえた。
「静かにして。声を出す前に命を刈り取るわ」
リリアの声は氷のように冷たかった。
バルドは激しく身震いする。
額から滝のように汗が流れる。
彼は小さく頷いた。
リリアは首筋から手を離す。
バルドの前に回り込む。
机の上の引き出しに視線を向けた。
「その右の引き出しを開けて」
バルドは震える手で引き出しを引く。
中には黒い革張りの手帳が入っていた。
裏帳簿だ。
孤児院の書類を偽造した証拠が記されている。
リリアは手帳を手に取る。
ページを素早くめくる。
暗闇でも彼女の目は文字を捉えた。
「見つけたわ。偽造の記録ね」
バルドの顔から血の気が引いた。
「なっ。なぜそれを」
リリアは手帳を机の上に放り投げる。
革の表紙が鈍い音を立てた。
「孤児院の借金はこれで帳消しよ」
「明日の朝マリアに謝罪の手紙を出しなさい」
「二度とあの場所に近づかないで」
バルドは椅子から崩れ落ちた。
床に這いつくばって見上げる。
目の前の幼女が底知れない化物に見えた。
「わかった。言う通りにする。だから命だけは」
リリアは何も答えない。
ただ冷たい瞳で見下ろした。
彼女は背を向けて立ち去る。
窓枠に足を乗せた。
夜の闇へ音もなく溶け込んでいく。
書斎には冷たい風だけが残された。
バルドは床に伏せたまま長く震え続けていた。




