2 予想外の日常
「やあ。」
今日も爽やかな声と優しげな笑顔に呼びかけられて、エリザの背中には冷たい汗が流れる。
このところ毎日のようにこの男に呼びとめられて。涼しい顔で微笑み返しながらもどうやってその場を離れようか頭脳を高速回転させて算段するものの。・・・手立てがない。
「エリザ、今日はこの後、時間ある?」あるけど無い。無いと言いたい。
先日、いつもの六人グループでいる時、名前で呼んでいいか尋ねられて皆して快諾してからというもの、一人でいる時も名前で呼ばれるようになってしまった。どうにもこの距離の近さが、落ち着かない。
「あるよね。
アンジェリカ達に、エリザは迎えが来るまでの間、図書館にでも行こうかと言っていたと聞いたんだ」
にっこり微笑まれては抵抗も無駄だと気づく。心の中で臍を噛み、引き攣らないように気をつけて微笑み返した。
いったいどういうつもりなのだろう。
彼の女嫌いは他国にまで轟き渡るほど有名な話だ。女性に異常に冷たいことも。
そのくせモテる。そこがいいのだと。
だからこの頃、彼方此方から鋭い視線に突き刺されて、大変なのだ。風当たりも強い。
逃げたい。
「生徒会の仕事がたまってしまって、少し手伝ってもらいたいんだ。
ほら、例の件でいろいろと忙しくしてしまっただろう?
それに、エドワードもグレアムも家の用事で呼び出されて、帰ってしまったんだ」
それなら仕方がない。私も御者に気を使ったりせずに早めに帰ってしまえばよかった。
殿下について生徒会室に向かった。
ほんとうにそこには仕事が山積みだった。指示に従って黙々と片付けて行く。
「とても助かった。ありがとう。もし嫌でなければ、これからも手伝ってもらえないだろうか?」
思わずこめかみに青筋が立ちそうになる。
言葉選びが、黒い。王族のあなたに嫌と言えると? 言えるものなら言いたい。す・ご・く・言いたい! でも。
「かしこまりました」にっこり。
「ありがとう!早速来週からよろしくね」にっこり。
は?来週から? ・・・突き飛ばしてやりたい。しないけど。
◇ ◇ ◇
私にはまだ婚約者はいない。
お父様とお母様は学園で生涯のパートナーと出会ったからという理由で、誰にどれだけ求められても、私たち兄妹の婚約を結ぼうとはしなかった。
そのおかげで、兄は見事、学園でお義姉様と出会い、結ばれた。
私もお兄様のように出会いたいと思っている。そして私が夢見ていたのは、真面目で真っ直ぐで、穏やかで優しくて静かな方だ。
ロレッタを見事に嵌めたような、腹黒く胡散臭い、冷たい人ではないと思う。ないはずだ。
だってそういうのは我がユーディット家の得意技で、二人ともがそんなだったら、たぶん心安まる間もないと思うし。お義姉様はおっとりとした穏やかな方だし。きっとお兄様も私と同じだったのだと思う。
◇ ◇ ◇
「やあ、君たち、今から昼食かい?私たちも一緒にいいだろうか?」
アンジェリカを一緒に守ったトーラス様達と私達は、仲の良い六人グループになっていた。最近、そこにアレクシス殿下はご友人方を伴ってやってきては、まだ一年生の私たちにやたらと話しかけ、仲間入りしたがるのだ。そして、食堂での昼食時など、いつのまにか私の隣に席を確保してしまうので、困惑するばかりだ。上級生のお姉様方から向けられる鋭く刺さり、焦げ付くような視線も恐ろしい。
この方、「氷の王子様」で「氷結王子」でしたよね? なんでこちらを見てニコニコ微笑っているの?
そのキラキラした麗しい笑顔、ロレッタを嵌めた時に使っていた黒いやつと一緒ですよね。私を嵌めて何のメリットが?彼の目を見て、心の中で思い切り問いかける。
が、軽く首を傾げて微笑み返してくるしまつ。お手上げである。
そして、その甘い笑顔につられて、寄ってくるのですよ。公爵家とか侯爵家とかのお姉様方や留学中の他国の姫君とかが。
その彼女達がニメートル以内に近づくや、彼はスッと表情を消してそちらを一瞥すると、無言になって、威圧なさる。
うっかり話しかけてこようものなら、蔑んだ眼差しをむけて、周り中が凍りつきそうな声で「何か?」と返す。
たいていの方は怯えて、「失礼いたしました」と引き下がる。
が、その日は違った。鋼の意志で立ち向かわれた姫君が、
「私ともご一緒くださいませ」と甘えた口調でおっしゃった。嫌悪感をむき出しにした殿下は、さらに底冷えのする声で、
「なぜ?」と。
姫君は返事もできず真っ青になってガタガタ震え、立っているのもやっとのご様子になった。
観衆の中には倒れてしまう人も数名。怖い。
それでも殿下の圧は減らず、さらに酷くなるので、「殿下」と、なんとか声をかけた。
すると彼は、数回まばたきをしてゆっくりこちらをご覧になり、徐々に表情が緩んできた。そして私の目を見ると春の微笑みに変わり。・・・お姉様方が、・・・。
さっきまで震えていた姫君は般若の形相で私を睨みつけてくる。倒れそう。
それに気づいた殿下が姫君に振り返り睨め付けると、席を立たれ、さらにブリザードのような殺気を彼女に浴びせかけてから、再び私を見つめた。五秒、十秒、・・・三十秒・・・、沈黙が痛い。瞳の熱が、苦しい。食堂中が静まり返る。お願い、皆様、通常に戻って・・・。その祈りもむなしく、殿下は甘く微笑み、静かにその場に膝をついて、私の手を取り指先に口づけながら私を見上げ(手を引き抜きたいのに引き抜けない。あまりの色気にクラクラしてくる)、
「エリザ・ユーディット嬢、あなたを心から愛しています。どうか私の妃に・・・」最後まで聞く前に意識が飛んでいた。




