御曹司の俺が文化祭で先輩に溺愛されました
クレープの甘さがまだ口の中に残っている頃、如月先輩はふいに足を止めた。
さっきまで人の流れに合わせて歩いていたのに、その瞬間だけ、時間がわずかに緩んだように感じる。
そして先輩は、俺の手をぎゅっと握り直した。
その握り方は、さっきまでの甘えるようなものとは少し違っていた。
ただ触れているだけではない、確かめるような、離さないと伝えるような力がそこにあった。
周囲では相変わらず文化祭の喧騒が続いている。
模擬店の呼び込みの声、遠くのステージから響く音楽、行き交う学生たちの笑い声。
それなのに、その手のぬくもりを感じた瞬間だけ、そうした音が少し遠のいた気がした。
人であふれるキャンパスの真ん中で、二人だけの時間がほんの少しだけ伸びたようだった。
「次はどこに行きたい?」
先輩が囁く。
その声はやわらかい。けれど、ただ俺に合わせるだけではない、何かを一緒に選び取りたいという意志のようなものが滲んでいた。
俺は配られたパンフレットを開き、地図を確認するふりをしながら、そっと先輩の横顔を盗み見る。
先輩の目は、祭りの色に染まっていた。
屋台の提灯の赤、行き交う人々の高揚、ステージの音響が混ざり合うこの空間の中で、先輩はまるで祭りそのものを楽しむために生まれてきたみたいに輝いて見える。
普段の凛とした美しさとは少し違う。
今日はそこに、年相応の無邪気さと、俺と同じ時間を過ごすことを心から楽しんでいるやわらかさがあった。
その光景を、俺は胸の奥に刻みつけるように深く息を吸った。
「お化け屋敷、行ってみる?」
先輩がそう言って、少しだけ楽しそうに笑う。
普段の先輩なら、こんなふうにいたずらっぽく誘うことはあまりない。
けれど今日は違った。
先輩は俺と一緒に、文化祭という特別な一日の中にある“普通じゃない瞬間”を、ひとつでも多く共有したいと思ってくれているように見えた。
列に並んでいる間、先輩は自然に俺の肩へ寄りかかってきた。
人の多さと夕方の空気のせいで少し疲れているのかもしれない。
けれどその重みは嫌ではなく、むしろ心地よかった。
先輩の髪がかすかに触れ、甘い香りがふわりと漂う。
「並ぶの、退屈でしょ」
そう言って先輩は軽く笑う。
その直後、俺の手の甲に、何かがそっと触れた。
驚いて見ると、先輩の指先が、まるで小さなキスを落とすみたいに一瞬だけ触れて離れていく。
ほんの短い仕草だった。
けれど、その一瞬が妙に鮮明で、確かな温度だけがそこに残った。
周囲では学生たちがキャッキャと騒いでいるのに、俺たちの間だけが静かに熱を帯びていくようだった。
やがて順番が来て、お化け屋敷の中へ入る。
中は想像以上に暗く、照明も音響もよく作り込まれていた。
足元を照らすわずかな明かり、突然響く物音、視界の端をかすめる影。
文化祭の出し物だとわかっていても、思った以上に雰囲気がある。
先輩は俺の腕を強く掴み、何かが現れるたびに小さく息を漏らした。
そのたびに、先輩の指先に力がこもる。
普段はどこか余裕があって、俺を包み込むように接してくれる先輩が、今はこんなふうに俺にしがみついている。
その感触が、妙に胸を熱くした。
守られているようでいて、今は自分が守りたい。
そんな気持ちが何度も胸の中に湧き上がる。
暗闇の中で、先輩の存在だけがやけにはっきりと感じられた。
腕に伝わるぬくもり、驚いたときの小さな声、近くで揺れる呼吸。
怖さよりも、その全部を感じていることのほうがずっと強く意識に残った。
ようやく出口に出ると、外の空気が少しひんやりとしていて、ほっと息が漏れた。
先輩は少しだけ頬を赤くしていた。
驚いたせいなのか、暗い中でずっと密着していたせいなのか、自分でもわからない。
「ごめんね、ちょっと驚いちゃった」
そう言いながら、先輩は俺の目をまっすぐ見た。
その視線の奥には、子どものような無邪気さと、大人の女性らしいやわらかさが同時に宿っていた。
俺はそのどちらにも惹かれているのだと、改めて思い知らされる。
次に向かったのは、写真部の展示スペースだった。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、そこは静かな空気に包まれていた。
白黒写真が整然と並び、足音さえ控えめになるような空間。
先輩は一枚一枚を丁寧に見て回る。
写真に向けられたその真剣な眼差しと、静かに息をつく横顔は、さっきまで祭りの中で見せていた華やかさとはまた違う美しさを放っていた。
「写真って、瞬間を切り取るでしょ」
先輩がぽつりと言う。
「でも、私はその瞬間の前後も見たいの。
人が笑うまでの過程とか、泣き顔の理由とか。
あなたといると、そういう“前後”が見たくなるのよ」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
先輩は、ただ今の俺だけを見ているわけじゃない。
表面的な肩書きや見える部分だけではなく、その奥にあるものまで知ろうとしてくれている。
御曹司という名前の裏に隠れてしまう孤独も、誰にも言えなかった弱さも、先輩はきっと見落とさない。
そう思うと、胸の奥にあった固いものが少しずつほどけていく気がした。
展示を出ると、夕暮れはさらに深まり、提灯の光がやわらかく浮かび上がっていた。
昼間の賑やかさとは違う、少しだけ落ち着いた祭りの色がキャンパスを包んでいる。
その中で先輩はふと立ち止まり、俺の顔を両手で包むようにして見つめた。
「藤崎くん、今日はあなたのことをもっと知りたいの」
静かな声だった。
けれど、その言葉には軽さがなかった。
「あなたが何を考えて、何を怖がって、何を大切にしているのか。
全部、少しずつでいいから教えてほしい」
その言葉は、まるで約束みたいに胸に落ちた。
俺は少しだけ息を整えてから、ゆっくりと話し始める。
家のこと。
幼い頃の記憶。
誰にも言えなかった孤独。
言葉にするたび、自分の中で曖昧だった感情が形を持っていく。
先輩は何も急かさず、ただ黙って頷いてくれた。
時折、小さく「そう」と返すだけ。
でも、その短い相槌がどれほど救いになるかを、俺はもう知っていた。
話し終えたとき、先輩は俺の手を強く握り、そっと額を寄せた。
近い。
そのぬくもりが、言葉より先に心へ届く。
「ありがとう」
たった一言。
けれど、その中には受け止めること、知ろうとすること、これからも隣にいること――そんな意味が全部込められている気がした。
俺は先輩の鼓動をすぐ近くに感じながら、世界が少しだけやわらかくなったように思えた。
文化祭はまだ半分も終わっていない。
それなのに、この午後だけで、俺たちの距離は確かに縮まった。
一緒に笑ったことも、驚いたことも、静かに心を開いたことも、その全部がこれからの関係を形作っていくのだと自然に思えた。
先輩はふと顔を上げ、夕暮れの空を見上げる。
提灯の明かりの向こうで、空はゆっくり夜へ変わり始めていた。
「まだ行きたいところ、ある?」
そう尋ねる先輩に、俺は迷わず首を振る。
行き先なんて、もうそれほど重要じゃなかった。
大事なのは、先輩と一緒にいることそのものだ。
俺は先輩の手を引いて、また歩き出した。
次に何が待っているのかはわからない。
けれど、先輩と一緒なら、どんな瞬間にもきっと意味が生まれる。
そう信じられるくらい、この日の先輩の隣はあたたかくて、やさしくて、かけがえのないものになっていた。
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