提灯の夜、先輩の“好き”が止まらない
提灯の光が揺れる道を歩きながら、俺と如月澪先輩は、いつの間にか自然に手を繋いだままだった。
昼間の文化祭の賑やかさはまだ遠くに残っているのに、夕暮れが深まったキャンパスは、もう別の表情を見せ始めている。
人の声も、ステージから流れる音楽も、屋台の呼び込みも、どこかやわらかく沈んでいて、昼の熱気が静かな余韻へと変わっていく。
提灯の明かりだけが夜の入口を照らし、その下を歩く人影を淡く染めていた。
そんな幻想的な空気の中で、先輩の手だけが、ずっと確かな温度を持って俺の手の中にあった。
「藤崎くん、ちょっと……こっち来て」
先輩がそう言って、指先で軽く俺を引く。
その仕草は控えめなのに、逆らえないほど自然だった。
連れて行かれた先は、キャンパスの隅にある、ほとんど人のいない中庭だった。
提灯の光はそこまでは届かず、木々の影が夜風に揺れている。
遠くから文化祭の喧騒がかすかに聞こえてくるだけで、ここだけが切り離された別世界みたいに静かだった。
さっきまで人の流れの中にいたはずなのに、この場所に足を踏み入れた瞬間、時間の進み方まで変わったような気がした。
「……落ち着くね、ここ」
先輩はそう言って、ベンチに静かに腰を下ろした。
俺もその隣に座る。
すると、思っていた以上に距離が近いことに気づく。
さっきまで人混みの中で触れ合っていたときよりも、ずっと近く感じた。
肩が触れそうで、触れない。
でも、もし少しでも動けば簡単に触れてしまう。
そんな距離だった。
そのわずかな隙間が、夜の静けさの中では妙に大きな意味を持っているように思えた。
触れたら終わりだとわかるのに、触れたいと思ってしまう。
そんな危うさを含んだ近さだった。
「藤崎くん」
名前を呼ぶ先輩の声は、いつもより少し低かった。
甘いのに、どこか張りつめていて、その響きだけで胸の奥が静かにざわつく。
「今日ね……ずっと思ってたの」
「何を、ですか?」
そう返すと、先輩は少しだけ視線を落とした。
長い睫毛が影を落とし、その表情が一瞬だけ読めなくなる。
けれど次の瞬間、先輩はまっすぐに俺を見た。
その瞳には、迷いと決意と、不安が同時に宿っていた。
「あなたが……誰かに取られたら、どうしようって」
その言葉に、胸が大きく跳ねた。
冗談ではないと、先輩の表情を見た瞬間にわかった。
だからこそ、返す言葉に戸惑う。
「取られるって……俺なんかを?」
思わずそう言うと、先輩は間髪入れずに言い返した。
「“なんか”じゃないわ」
その声は静かだった。
けれど、はっきりとした強さがあった。
否定を許さない響きだった。
「藤崎くんは、優しいし、気が利くし……
誰かが放っておくわけないもの」
そう言いながら、先輩は俺の手をそっと握った。
その指先が、わずかに震えている。
その震えに気づいた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
完璧に見える先輩が、こんなふうに不安を隠せずにいる。
その事実が、どうしようもなく愛おしかった。
「……怖かったの」
その一言は、如月先輩ではなく、“澪”としての声だった。
誰にも見せない弱さを、今だけ俺に差し出しているような声。
それがあまりにもまっすぐで、息をするのも忘れそうになる。
「今日、あなたが楽しそうに笑ってるのを見て……
嬉しいのに、胸がぎゅってして……
誰かに奪われるみたいで、落ち着かなくて」
先輩の言葉は、堰を切ったように静かに溢れ出していく。
昼間の文化祭で見せていた余裕も、からかうような笑みも、今はどこにもなかった。
あるのはただ、俺を失うかもしれないという不安だけだった。
「藤崎くんは、私が拾ったのよ?
雨の中で震えてたあなたを、私が……」
その声は少しだけ震えていた。
あの日のことを思い出しているのだろう。
俺にとっても忘れられないあの瞬間を、先輩は今も大切に抱えてくれている。
「だから……手放したくないの。
あなたが誰かに笑いかけるの、見たくないの。
私だけを見てほしいの」
その言葉は、甘いのに苦しかった。
独占欲も、嫉妬も、不安も、全部が混ざっているのに、少しも醜くなんてなかった。
むしろ、こんなにもまっすぐに求められることが、どうしようもなく嬉しかった。
「……先輩」
俺が名前を呼ぶと、先輩の瞳が不安そうに揺れた。
その表情は、普段の冷徹で完璧な先輩とはまるで違う。
まるで、俺に嫌われることを本気で怖がっているみたいだった。
「嫌……だった?」
その問いかけは小さくて、壊れそうなくらい弱かった。
そんな顔をさせたくないと、心から思った。
「嫌じゃないです」
俺はゆっくりと首を振った。
言葉を急がず、ちゃんと届くように。
「むしろ……嬉しいです。
そんなふうに思ってくれて」
先輩の目が、驚いたように見開かれる。
その瞳の奥に、少しずつ安堵の色が広がっていくのがわかった。
「俺も……先輩に取られたくないですから」
その瞬間、先輩の表情がふっとほどけた。
張りつめていたものが、やっと緩んだみたいに。
そして先輩は、そっと俺の肩に頭を預けた。
「……藤崎くん」
髪が触れる。
体温が伝わる。
呼吸が近い。
夜の静けさの中で、その全部がやけにはっきりと感じられた。
「ねえ……もう少しだけ、このままでいてもいい?」
その声は甘えるようで、縋るようで、でもどこか安心した響きがあった。
さっきまでの不安が、少しだけ溶けているのがわかる。
「もちろんです」
そう答えると、先輩は小さく笑った。
「……ありがとう。
藤崎くんの隣、本当に落ち着くの」
そのまま、しばらく沈黙が続いた。
けれど気まずさはまったくなかった。
ただ、提灯の光と夜風と、先輩の体温だけが静かに流れていく。
遠くの祭りの音さえ、この場所では優しい背景音にしかならなかった。
やがて先輩は、俺の手をそっと包み込むように握り直した。
その仕草は、さっきまでよりもずっとやわらかく、けれど深い想いを含んでいるように感じられた。
「藤崎くん」
その声は、さっきよりずっと甘かった。
夜の静けさに溶けるように、でも確かに俺の胸へ届く。
「……好きよ」
提灯の光が揺れる中で、その言葉は静かに落ちてきた。
けれど胸の奥に届いた瞬間、世界が一気に熱を帯びた。
たった二文字のはずなのに、その重みは何よりも大きかった。
「ずっと、ずっと……好き。
今日のあなたを見て、もっと好きになったの」
先輩は顔を寄せ、俺の肩に額を預けた。
その仕草には甘えと安堵と、抑えきれない想いが全部滲んでいた。
「ねえ……藤崎くん。
私、あなたのことになると、どうしようもなくなるの」
その声は震えていた。
けれど、その震えは不安だけじゃない。
確かに“幸せ”が混ざっていた。
好きだという気持ちが大きくなりすぎて、自分でも持て余してしまう。
そんな素直な告白だった。
俺はそっと先輩の手を握り返した。
そのぬくもりを確かめるように、逃がさないように。
「俺も……先輩が好きです」
その瞬間、先輩は小さく息を呑んだ。
そして次の瞬間には、俺の胸にぎゅっと抱きついてきた。
細い腕なのに、その力は驚くほどまっすぐで、先輩の気持ちそのものみたいだった。
「……嬉しい。
藤崎くん、大好き」
その言葉は、夜風よりも、提灯の光よりも、ずっと温かかった。
胸の奥に静かに染み込んで、今日という一日を特別なものに変えていく。
文化祭の夜は、まだ終わらない。
遠くではまだ笑い声がして、音楽も流れている。
けれど――この瞬間だけで、今日という日は一生忘れられないものになった。
提灯の揺れる夜の中で、先輩のぬくもりと声と鼓動をこんなにも近くに感じたことを、きっと俺はずっと忘れない。
この夜の静けさも、胸の熱さも、先輩がくれた「好き」の重みも、全部まとめて、かけがえのない記憶になっていくのだと思った。
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