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先輩、限界デレのまま帰りたがらない

提灯の光がゆっくりと揺れていた。

文化祭の夜は、昼間の賑やかさとはまるで違う。

あれほど騒がしかったキャンパスも、夜が深まるにつれて少しずつ音を落とし、人の声も、ステージの音楽も、どこか遠くへ沈んでいく。

その静けさが、かえって胸を高鳴らせた。

昼間の熱気が消えたぶん、隣にいる人の気配だけが、やけにはっきりと感じられるからかもしれない。


澪先輩は、俺の腕にそっと絡みついたまま歩いていた。

ただ並んで歩いているだけじゃない。

腕に伝わるやわらかな重みと体温が、先輩が今も俺の隣にいることを何度も教えてくる。

提灯の明かりが揺れるたび、その横顔が淡く照らされて、昼間とは違う大人びた美しさを見せた。

けれど、その表情の奥には、俺にしか見せないやわらかさが確かにあった。


「……ねえ、藤崎くん」


名前を呼ぶ声が、さっきよりも甘い。

文化祭の熱気はもう落ち着いているはずなのに、先輩の体温だけが妙に熱く感じられた。

腕越しに伝わるぬくもりが、夜風の冷たさを忘れさせる。


「今日ね……ずっと幸せだったの」


その言葉は、夜風よりもやわらかく胸に落ちた。

何気ないようでいて、先輩の一日の全部がそこに込められている気がした。

文化祭を一緒に回った時間も、笑い合ったことも、手を繋いだことも、その全部を先輩は“幸せ”と呼んでくれたのだと思うと、胸の奥がじんわり熱くなる。


「俺もですよ。先輩と一緒に回れて」


そう答えると、先輩は少しだけ歩く速度を落とした。

そして、俺の腕にぎゅっとしがみつく。

その力は強すぎないのに、離れたくないという気持ちがまっすぐ伝わってきた。


「……もっと言って」


「え?」


思わず聞き返すと、先輩は少しだけ顔を上げた。

提灯の光を映した瞳が、かすかに潤んでいる。

こんな表情、学校では絶対に見せない。

誰にでも完璧で、凛としていて、隙なんてひとつもないように見える先輩が、今はこんなにも素直に俺を求めている。

その事実だけで、胸がいっぱいになった。


「“俺も幸せだった”って……もっと聞きたいの」


その声は甘えているようで、でもどこか切実だった。

ただ言葉が欲しいのではなく、俺の気持ちを何度でも確かめたいのだとわかる。

だから俺は、照れを飲み込んで、ちゃんと先輩に届くように言った。


「本当に……幸せでした。

先輩と一緒にいられて」


その瞬間、先輩は俺の胸に顔を押しつけてきた。

ふわりと髪が触れ、甘い香りが近くなる。

その仕草は子どもみたいに無防備なのに、どうしようもなく愛おしかった。


「……好き。

藤崎くんのそういうところ、全部好き」


その声は少し震えていた。

けれど、その震えは不安ではなく、確かに“嬉しさ”で満ちていた。

好きだという気持ちが大きくなりすぎて、言葉にするだけで胸がいっぱいになっている。

そんなふうに聞こえた。


しばらくそのまま歩いているうちに、やがて校門の前へたどり着いた。

文化祭の終わりを告げるように、人の流れは少しずつ外へ向かっている。

ここから先は、それぞれの帰り道へ分かれていく場所だった。

楽しかった時間の終わりが、急に現実味を帯びてくる。


けれど――


「……帰りたくない」


先輩がぽつりと呟いた。

あまりにも小さな声だったのに、その一言ははっきりと胸に届いた。


「え?」


思わず聞き返すと、先輩は少しだけ視線を逸らし、それからまた俺を見た。

その瞳には、さっきまでの甘さとは違う、もっと深い名残惜しさが滲んでいた。


「まだ……藤崎くんといたいの。

今日のあなた、可愛すぎて……離れたくない」


その言葉に、胸が一気に熱くなる。

可愛いなんて言われることにも慣れないし、そんなふうに惜しまれることにも慣れていない。

でも、先輩が本気でそう思ってくれているのがわかるから、余計に心臓が落ち着かなかった。


「先輩……」


名前を呼ぶのが精一杯だった。

すると先輩は、少しだけためらうように息をついてから、静かに言った。


「ねえ、藤崎くん。

このまま……うちに来ない?」


その一言で、心臓が大きく跳ねた。

頭の中が一瞬真っ白になる。

夜。

二人きり。

先輩の家。

言葉の意味を理解した途端、鼓動がうるさいほど速くなった。


「い、いや、その……」


うまく言葉が出てこない。

そんな俺を見て、先輩は慌てたように首を振った。


「違うの。変な意味じゃなくてね?」


その言い方が少し必死で、逆に胸がくすぐったくなる。

先輩は視線を揺らしながら、でもまっすぐに続けた。


「ただ……今日の気持ちのまま、あなたと一緒にいたいだけ。

手を繋いで、話して……

あなたの隣で眠れたら、それだけでいいの」


その言葉は甘くて、やさしくて、でもどこか切実だった。

何かを求めるというより、ただこの幸せな時間を終わらせたくないのだと伝わってくる。

文化祭の特別な一日が終わってしまっても、その余韻の中で、もう少しだけ俺と一緒にいたい。

その願いがあまりにもまっすぐで、断る理由なんてどこにもなかった。


「……俺でよければ」


そう答えた瞬間、先輩の顔がぱっと明るくなった。

夜の中でもわかるくらい、嬉しさがそのまま表情に広がっていく。


「……嬉しい。

藤崎くん、大好き」


その言葉と一緒に、先輩はまた俺の手を強く握った。

そのぬくもりが、返事の代わりみたいに胸へ伝わってくる。


そのまま先輩は俺の手を引いて歩き出した。

文化祭の提灯の光が少しずつ遠ざかり、賑わいも静かに背後へ消えていく。

夜の街へ向かう道は、さっきまでの祭りの空気とは違って、もっと静かで、もっと現実的なはずなのに、不思議と夢の続きみたいに感じられた。


――そのとき。


「藤崎くん」


先輩がふいに立ち止まり、俺のほうを振り返った。

街灯の下で見るその表情は、さっきまでよりもずっとやわらかい。

けれど、その瞳の奥には、言葉にしきれないほどの想いが揺れていた。


「今日ね……あなたの“全部”が愛おしかったの」


その言葉は、夜空に溶けるように静かだった。

でも確かに、まっすぐ俺の胸を貫いた。

笑った顔も、照れた顔も、優しくしてくれたことも、戸惑ったことも、全部。

先輩は今日の俺のすべてを見て、それごと愛おしいと言ってくれている。


「これからも……ずっと隣にいてくれる?」


その問いは、ただの確認じゃなかった。

告白よりも重く、誓いよりもやさしい。

未来のことなんて簡単には言えないはずなのに、先輩のその声を聞いた瞬間、迷いはなかった。


「もちろんです。

俺は……先輩の隣がいいです」


そう言うと、先輩は目を細めて微笑んだ。

その笑みは、安心したようでもあり、満たされたようでもあった。


「……ありがとう。

藤崎くんの“好き”が、もっと欲しくなる」


その言葉には、少しだけ困ったような甘さがあった。

好きになればなるほど、もっと欲しくなる。

もっと確かめたくなる。

そんな気持ちを隠さずに伝えてくれる先輩が、たまらなく愛おしかった。


そのまま、先輩は俺の手を強く握り直した。

離さないと伝えるみたいに。

俺もその手を握り返す。

夜の空気は少し冷たいのに、二人の間だけは不思議なくらいあたたかかった。


文化祭の夜は終わった。

提灯の光も、笑い声も、少しずつ遠ざかっていく。

でも――二人の夜は、まだ始まったばかりだった。

今日という特別な一日の続きを、これから先も先輩と一緒に歩いていける。

そう思えたことが、何よりも幸せだった。

夜の静けさの中で繋いだ手のぬくもりは、きっとこの先もずっと忘れられない。

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