先輩の家までの帰り道、距離がまたひとつ縮まる
夜の街は、文化祭の余韻をまだどこかに残したまま、静かに息づいていた。
さっきまでいたキャンパスでは、提灯の光や人の笑い声、ステージの音楽が夜を彩っていたのに、そこを離れて少し歩くだけで、世界はずいぶん違う表情を見せる。
遠ざかっていく祭りの気配の代わりに、街灯の白い光が足元を淡く照らし、舗道に二人分の影を長く落としていた。
その静けさの中で、俺と澪先輩は手を繋いだまま歩いていた。
先輩の手は、さっきよりも少しだけ強く俺の手を握っている。
まるで「離さない」と、言葉にしなくても伝えてくるみたいだった。
そのぬくもりが、夜風の冷たさを忘れさせる。
「藤崎くん、疲れてない?」
先輩がふいにそう尋ねる。
その声はやわらかく、気遣うようでいて、どこか甘い。
俺は首を横に振った。
「大丈夫ですよ。先輩こそ」
そう返すと、先輩は少しだけ目を細めて笑った。
文化祭の喧騒の中で見せていた華やかな笑顔とは違う。
今の先輩の笑みは、もっと静かで、もっと近くて、俺だけに向けられているように感じられた。
「私は……うん。あなたが隣にいると、疲れないの」
その言葉は、何気ないようでいて、胸の奥にじんわりと染み込んでくる。
疲れない、というより、きっと先輩は俺といることで心がほどけているのだろう。
そう思うと、嬉しさと同時に、少しだけくすぐったい気持ちになる。
「今日ね、ずっと思ってたの」
先輩がそう言って、繋いだ手を軽く揺らした。
その仕草があまりにも自然で、恋人らしくて、胸がまた熱くなる。
「また……ですか?」
思わずそう返すと、先輩はくすりと笑った。
「ふふ。そう、“また”よ」
その言い方がどこか楽しそうで、でも真剣さも滲んでいる。
先輩は少しだけ歩く速度を落としながら、静かに続けた。
「藤崎くんって……本当に、私の心を落ち着かせてくれるの。
あなたといると、嫌なことも、不安も、全部どこかに消えていくの」
その言葉は、夜風よりも静かに胸に落ちた。
先輩の中にある不安や緊張や、誰にも見せない弱さを、俺が少しでも和らげられているのだとしたら、それは何より嬉しいことだった。
俺は先輩の横顔を見つめながら、ゆっくりと言葉を返す。
「俺も……先輩といると、安心します」
先輩がすぐにこちらを見た。
その瞳には、期待するような、確かめるような光が宿っている。
「ほんと?」
「ほんとです」
そう答えると、先輩は嬉しそうに目を細めた。
その表情は、まるで大切なものを受け取った子どもみたいに素直だった。
「……じゃあ、もっと安心させてあげる」
「え?」
思わず聞き返すと、先輩は少しだけいたずらっぽく笑った。
「うちに着いたらね」
その言い方には、どこか含みがあるようにも聞こえた。
けれど、いやらしさや駆け引きのようなものはまったくなくて、ただ“心を休ませたい”“今日は甘やかしたい”というやさしさだけが滲んでいた。
だからこそ、余計に胸が熱くなる。
先輩の家へ向かう道のりが、急に特別なものに思えた。
やがて先輩のマンションに着くと、エントランスの明かりが静かに二人を迎えた。
文化祭帰りの高揚感をそのまま包み込むような、落ち着いた光だった。
自動ドアが開き、ひんやりとした空気が流れる。
外の夜風とは違う、整えられた静けさがそこにはあった。
エレベーターに乗り込むと、密室特有の静けさが二人を包む。
先輩は隣に立ったまま、そっと俺の袖をつまんだ。
その小さな仕草が、妙に胸に残る。
「……ねえ、藤崎くん」
「はい」
「今日のあなた、すごく頑張ってたでしょ?」
「頑張って……?」
自分ではそこまで意識していなかったから、少し戸惑ってしまう。
すると先輩は、やわらかく頷いた。
「うん。
人混みも、写真部の展示も、お化け屋敷も……
全部、私に合わせてくれた」
そう言いながら、先輩は俺の手を包み込むように握った。
その手つきはやさしくて、まるで労わるようだった。
自分では当たり前だと思っていたことを、先輩はちゃんと見ていてくれたのだとわかる。
その事実だけで、胸の奥がじんと熱くなった。
「だからね、今日は……あなたを甘やかしたいの」
その言葉は、静かに、でも確かに胸の奥へ染み込んでいく。
甘やかす。
その響きはくすぐったくて、でもどこか安心する。
先輩にそう言われると、無理に強がらなくてもいいのだと思えてしまう。
「甘やかすって……どうするんですか?」
そう聞くと、先輩は少しだけ楽しそうに笑った。
「ふふ、それは着いてからのお楽しみ」
エレベーターが静かに上昇する音だけが響く。
その短い時間の中で、先輩はそっと俺の肩に頭を預けた。
不意打ちみたいなその仕草に、心臓がまた大きく跳ねる。
「藤崎くん。
あなたが笑ってくれるだけで、私……すごく幸せなの」
その声は、文化祭の喧騒の中で聞いたどの言葉よりも優しかった。
飾りも、照れ隠しもない。
ただまっすぐな本音だけが、静かに胸へ届く。
俺は何も言えなくなって、ただその重みを受け止めることしかできなかった。
部屋に入ると、先輩は靴を脱ぐのもそこそこに、すぐキッチンへ向かった。
慣れた足取りで、迷いなく動いていく。
「座ってて。すぐ戻るから」
「え、あの……」
「いいから。今日は私がしたいの」
そう言って、先輩はエプロンをつけた。
その姿があまりにも自然で、胸がじんわりと温かくなる。
学校で見せる完璧美人の顔とも、文化祭で見せた華やかな顔とも違う。
今ここにいるのは、俺を家に招き入れて、当たり前みたいに世話を焼こうとしてくれる澪先輩だった。
その日常の延長みたいなやさしさが、たまらなく愛おしい。
しばらくして、先輩は湯気の立つマグカップを二つ持って戻ってきた。
ふわりと甘い香りが漂う。
「はい、藤崎くん。
あったかいミルク。疲れたときに飲むと落ち着くのよ」
「……ありがとうございます」
マグを受け取ると、じんわりとした熱が手のひらに伝わる。
そのぬくもりが、今日一日の疲れを少しずつほどいていくようだった。
先輩は俺の隣に腰を下ろし、そっと肩を寄せてくる。
その距離の近さが、もう自然になっていることに気づいて、胸が静かに熱くなる。
「ねえ、藤崎くん」
「はい」
「今日のあなた……すごく頑張ったから」
先輩は俺の手を包み込み、やさしく微笑んだ。
その笑みには、労わりと愛しさがそのまま滲んでいる。
「いっぱい甘えていいのよ?」
その言葉は、文化祭のどの瞬間よりも甘くて、どの提灯よりも温かかった。
外の祭りの光はもう遠い。
けれど今、俺の目の前にあるこのぬくもりのほうが、ずっと心を照らしてくれる気がした。
俺は小さく息を吸い、その手を握り返す。
強がる必要なんてない。
先輩の前では、少しくらい弱くてもいいのだと思えた。
「……じゃあ、少しだけ」
そう言うと、先輩は嬉しそうに笑った。
「うん。少しじゃなくてもいいけど?」
その返しがあまりにもやさしくて、思わず笑ってしまう。
先輩もつられるように笑った。
その穏やかな空気が、部屋の中を静かに満たしていく。
夜は静かに更けていく。
文化祭の喧騒はもう遠い。
提灯の光も、笑い声も、今は思い出の向こう側にある。
でも――澪先輩の隣にいるこの時間だけは、今日のどの瞬間よりも特別だった。
祭りの高揚感とは違う、もっと深くて、もっと静かな幸福。
それが今、確かにここにある。
先輩のぬくもりと、あたたかいミルクと、やさしく包み込まれるような空気の中で、俺は今日という一日が本当にかけがえのないものになったのだと、静かに実感していた。
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