横川の釜めしを食べに来ただけなのに、彼女が「ひと口ちょうだい」から全部甘すぎて、気づいたら今日いちばん恋人っぽい時間になっていた
鉄道文化むらを出たあと、澪はまだ少しだけ楽しそうな余韻を残した顔で歩いていた。
「思ってたよりよかった」
「だろ?」
「うん。あなたが楽しそうだったのもよかったし」
そう言って、澪は少しだけこちらを見上げる。
「説明してるとき、ちょっと子どもみたいだった」
「それまだ言う?」
「だって可愛かったし」
その返しに、またこっちが言葉を失う。
今日は本当に、澪のほうが容赦ない。
「……仕返し上手くなったな」
「学習したの」
澪はそう言って、少しだけ得意そうに笑った。
その笑顔のまま、ふと前を向く。
「で、次は釜めし?」
「そうだな」
「楽しみ」
その一言に、今度は食べるほうの楽しみが前に出てくる。
横川まで来たなら、やっぱり釜めしは外せない。駅弁として有名だけれど、こうして現地で食べるのはまた違う特別感がある。
「お腹空いた?」
聞くと、澪は素直にうなずいた。
「空いた」
「朝食しっかり食べてたのに」
「歩いたし、いっぱい見たし」
「それはそうか」
「あと、あなたが楽しそうだったから、なんか私まで元気出た」
その言い方がやわらかくて、胸の奥がまたあたたかくなる。店に入ると、独特の落ち着いた空気があった。
横川らしい雰囲気の中で、釜めしの香りがほんのり漂っている。席に案内されて向かい合って座ると、澪は小さく息をついた。
「なんか、ちゃんと来たって感じする」
「わかる」
「さっきまで展示見てたのも楽しかったけど、ここで釜めし食べると、横川に来た実感が完成する感じ」
その表現が妙にしっくりきて、思わず笑う。
「完成するんだ」
「するの」
澪はそう言って、メニューを見ながら少しだけ目を輝かせた。
結局、二人とも釜めしを頼むことにした。
「楽しみだね」
澪が言う。
「うん」
「でも、たぶん私、食べたら絶対うれしそうな顔する」
「予告するんだ」
「先に言っとく」
その言い方が可愛くて、また笑ってしまう。
釜めしが運ばれてくる。
蓋を開けた瞬間、湯気と一緒に香りが立ちのぼる。
「わあ……」
澪が本当にうれしそうな声を漏らした。
その反応が、予告通りすぎて可笑しい。
「もう顔がうれしそう」
そう言うと、澪は少しだけ照れたように笑った。
「だって、これはうれしい」
釜の中には、鶏肉、ごぼう、しいたけ、栗、うずらの卵、杏子。見た目だけでも、ちゃんと横川の釜めしという感じがある。
「いただきます」
二人で手を合わせる。
澪は最初のひと口を、少しだけ慎重に口へ運んだ。
そして次の瞬間、目を細める。
「……おいしい」
その言い方が、朝食のだし巻き卵のとき以上に幸せそうで、思わず見入ってしまう。
「そんなに?」
「うん……すごい好き」
澪はそう言って、もう一口食べる。
「味がやさしいのに、ちゃんとおいしい」
「わかる」
「あと、なんか落ち着く」
その感想が澪らしくて、胸の奥がくすぐったくなる。
「見てるこっちも落ち着く」
そう言うと、澪は少しだけ頬を赤くした。
「……また見てた」
「おいしそうに食べるから」
「だっておいしいんだもの」
その返しまで、朝食のときと同じで、でも今はもっと距離が近い気がした。
しばらくは、二人とも素直に食べることに集中していた。
釜めしは本当においしくて、ひと口ごとにちゃんと満足感がある。でも、落ち着いた時間が続くかと思ったのは甘かった。
「……ねえ」
澪が少しだけ声をひそめる。
「うん?」
「ひと口ちょうだい」
その一言に、思わず箸が止まる。
「同じの頼んだのに?」
「でも、そっちのほうがちょっとおいしそうに見える」
「気のせいだろ」
「気のせいでもいいの」
その言い方が、完全に味見したいだけじゃない響きを持っていて、心臓が変に跳ねる。
「……どれがいい?」
そう聞くと、澪は少しだけ考えるふりをしてから、小さく笑った。
「あなたが選んで」
それはずるい。
そう思いながらも、俺は釜の中から鶏肉とごはんを少し取る。
「はい」
箸で差し出すと、澪は一瞬だけその箸先を見て、それからゆっくりこちらを見る。
「食べさせてくれるの?」
「……そうなるな」
「ふふ」
澪は少しだけうれしそうに笑った。
その笑い方がもうだめだ。
店の中だし、周りに人もいるし、本来なら少し遠慮してもよさそうなのに、澪は今日は妙に素直だった。
「じゃあ、もらう」
そう言って、澪は少しだけ身を乗り出す。
距離が近い。
箸先から食べるその仕草が、妙に丁寧で、でも恋人っぽくて、頭が少し熱くなる。
「……おいしい」
食べたあと、澪は満足そうに笑った。
「やっぱりそっちのほうがおいしい気がする」
「同じだって」
「でも、食べさせてもらったからかも」
その一言が、静かに胸へ刺さる。
「それは反則だろ」
「何が?」
「言い方」
そう返すと、澪は少しだけいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、今度は私のも食べる?」
そう言って、澪は自分の釜から栗をひとつ取った。
「はい」
差し出される。
今度は完全に、さっきの仕返しだった。
「……ここで?」
「ここで」
「普通に?」
「普通に」
澪は平然とした顔をしているけれど、耳は少し赤い。
つまり、照れていないわけじゃない。照れているのにやっている。
それが余計にだめだった。
俺は少しだけ息をついて、差し出された栗を口にする。
甘くて、ほくっとしていて、ちゃんとおいしい。
でも、味より先に意識することが多すぎる。
「どう?」
澪が聞く。
「……おいしい」
「でしょ」
「でもたぶん、栗のせいだけじゃない」
そう言うと、澪は一瞬だけ目を丸くして、それから頬を赤くした。
「……もう」
「本当だから」
「そういうこと、さらっと言うのずるい」
「先にやったのは澪だろ」
そう返すと、澪は少しだけ笑った。
「たしかに」
そこから先は、もう完全にだめだった。
「そのしいたけも気になる」
「じゃあ半分」
「ごぼうも食べる?」
「食べる」
「杏子、ひと口いる?」
「いる」
同じ釜めしを食べているはずなのに、なぜか何度も交換が発生する。
しかもそのたびに、ただ味見するだけじゃ終わらない。
「そっちのほうがちょっと大きい」
「じゃあこっちあげる」
「やさしい」
「澪が欲しそうだったから」
「欲しかった」
「素直だな」
「あなたの前ではね」
そんな会話が、ひと口ごとに増えていく。
もう釜めしを食べているのか、いちゃついているのか、よくわからない。
たぶん両方だ。
食べ進めるうちに、澪の表情はどんどんやわらかくなっていった。
「……幸せ」
ぽつりと、本当に自然にそう言う。
「大げさじゃない?」
「大げさじゃない」
澪は小さく首を振る。
「おいしいもの食べて、好きな人と一緒にいて、しかもいっぱい甘やかされてる」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
「甘やかされてる自覚あるんだ」
「あるよ」
「どのへん?」
そう聞くと、澪は少しだけ考えてから、やわらかく笑った。
「ひと口ちょうだいって言ったら、ちゃんとくれるところ」
「それくらい普通だろ」
「普通でもうれしいの」
「他は?」
「可愛いって思ってるの隠せてないところ」
その指摘に、思わず言葉が止まる。
「……そんなに出てる?」
「出てる」
澪は少しだけ得意そうに笑った。
「でも、それが好き」
その一言が、今日何度目かわからないくらい、まっすぐ胸に落ちる。
食事の終盤。
釜の中身もだいぶ減ってきて、名残惜しさが少しずつ混じり始める。
澪は最後のひと口を前にして、少しだけ箸を止めた。
「終わるのさみしい」
「わかる」
「おいしかったし」
「うん」
「あと、楽しかった」
その言い方が、朝食のときと同じなのに、今はもっと甘い意味を持って聞こえる。
「釜めし食べるだけで、こんなに楽しくなるんだな」
俺がそう言うと、澪は少しだけ目を細めた。
「あなたとだからだよ」
その一言で、もう完全にだめだった。
「……ほんとに今日は容赦ないな」
「だって本当だもの」
澪はそう言って、最後のひと口を食べる。
それから、満足そうに小さく息をついた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
二人で手を合わせる。
食べ終わったはずなのに、まだ胸の奥があたたかいままだった。少しだけ席で休んでいると、澪がテーブルの上でそっと指先を動かした。
何気ない仕草かと思ったら、その指先が、俺の手の近くで止まる。
「……ねえ」
「うん?」
「今日、今のところここがいちばん好きかも」
「ここって?」
「今」
澪は少しだけ照れたように笑った。
「釜めし食べてる時間」
「そんなに?」
「うん」
「なんで」
そう聞くと、澪は少しだけ視線を落としてから、静かに答えた。
「いちばん恋人っぽかったから」
その言葉に、胸の奥がきゅっとなる。
たしかにそうだった。
朝からずっと甘かった。でも、さっきのひと口ちょうだいからの時間は、その中でも特別だった気がする。
「……俺もかも」
そう返すと、澪はうれしそうに目を細めた。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、今日の後半はこれを超えないとね」
その言い方が可愛くて、思わず笑ってしまう。
「ハードル高いな」
「あなたならいけるかも」
「何その期待」
「期待してるの」
澪はそう言って、テーブルの下でそっと俺の膝に触れた。
ほんの一瞬。でも、それだけで心臓が跳ねるには十分だった。
「……澪」
小さく名前を呼ぶと、澪は少しだけいたずらっぽく笑う。
「なに?」
「ほんとに今日はだめだ」
「何が?」
「好きが増えすぎる」
そう言うと、澪は一瞬だけ目を丸くして、それからふわっと笑った。
「……私も」
その笑顔が、今日見た中でもたぶんいちばんやわらかかった。
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