軽井沢から横川へ向かう山越えバスで、彼女が揺れに酔って少しだけ弱るたび、守りたい気持ちが昨日よりもっと強くなった
「……横川行かない?」
澪にそう言われたあと、俺たちは少しだけ予定を確認して、旅館を出る支度を整えた。
軽井沢から横川へは、山を越えるバスが出ているらしい。時間にして三十分ほど。距離だけ見ればそこまで長くないけれど、道はそれなりに曲がると聞いていた。
「バス、揺れるかな」
旅館を出て、停留所へ向かう途中で澪がそう言った。
「山道なら多少は揺れるかもな」
「うーん……」
澪は少しだけ考える顔をしたあと、でもすぐに笑った。
「まあ、三十分くらいなら大丈夫でしょ」
その言い方は、自分に言い聞かせているようでもあった。
「酔いやすい?」
聞くと、澪は少しだけ肩をすくめる。
「すごく弱いわけじゃないけど、山道はちょっと苦手かも」
「じゃあ、もしきつそうならすぐ言って」
そう言うと、澪はやわらかくうなずいた。
「うん。ちゃんと言う」
その返事に、昨夜から今朝にかけてのことを思い出す。澪は今日は、思ったことをちゃんと言う日にしたいみたいなことを言っていた。
だからたぶん、無理をして黙ることはない。そう思うと少し安心した。
バス停には、同じように観光らしい人が何人かいた。
軽井沢の空気はまだ涼しくて、朝の名残を少しだけ残している。でも日差しは明るくて、これから出かけるにはちょうどいい天気だった。
やがてバスが来る。
思っていたよりもこぢんまりした車体で、いかにも山道を走りそうな雰囲気がある。
「ほんとに山越える感じのバスだね」
澪が小さく言う。
「たしかに」
乗り込んで、二人並んで座れる席に腰を下ろす。
窓の外には軽井沢の景色。少しずつ動き出す車体に合わせて、今日の観光が本格的に始まる感じがした。
「なんか、ちょっとわくわくする」
澪はそう言って、窓の外を見た。
「昨日とはまた違う感じだな」
「うん。今日は移動も旅っぽい」
その言葉に、俺も少しだけうなずく。
電車とは違う。バスで山を越えるというだけで、少しだけ冒険みたいな気分になる。
最初のうちは、道もまだそこまで険しくなかった。
軽井沢の街並みが少しずつ遠ざかって、緑が増えていく。窓の外の景色を見ながら、澪は楽しそうに小さな声を漏らしていた。
「きれい」
「ほんとだな」
「空気まで違う感じする」
「窓閉まってるけどな」
そう言うと、澪は少しだけ笑った。
「雰囲気の話」
「それはわかる」
そんなふうに、最初の十分くらいは穏やかだった。
でも、山道に入ってから空気が少し変わる。
カーブが増える。車体が左右に揺れる。上り下りもはっきりしてきて、座っているだけでも体が持っていかれる感じがあった。
「……あ、ちょっとすごいかも」
澪が小さくつぶやく。
「大丈夫?」
すぐに聞くと、澪は一度だけうなずいた。
「まだ平気」
でもその声は、さっきまでより少しだけ元気がない。
俺は窓の外を見るのをやめて、澪のほうへ意識を向ける。
「前見てたほうがいいかも」
「うん……」
澪は素直に従って、窓から視線を外した。
さっきまで楽しそうにしていた顔が、少しずつ静かになっていく。
バスはさらに山道を進む。
カーブのたびに、車体がぐらりと揺れる。三十分という時間は短いはずなのに、こういう揺れの中だと妙に長く感じる。
澪は両手を膝の上で軽く握っていた。
「……澪」
小さく呼ぶと、澪はゆっくりこちらを見る。
「ん……」
「きつい?」
そう聞くと、澪は少し迷ってから答えた。
「……ちょっと」
そのちょっとは、たぶん本当にちょっとではない。顔色が悪いほどではないけれど、明らかにさっきまでの余裕はなくなっていた。
「無理しなくていいよ」
「うん……」
澪はそう返して、少しだけ息をつく。
「思ったより、揺れるね」
「山越えだからな」
「うん……ちょっと油断した」
その言い方が弱々しくて、胸の奥がきゅっとなる。
昨日から今日にかけて、可愛いと思う瞬間は何度もあった。でも今は、それとは少し違う。
守りたい、という気持ちが前に出る。
何かできることがあるわけじゃない。代わってやれるわけでもない。それでも、少しでも楽にしてやりたいと思う。
「肩、使う?」
そう言うと、澪は少しだけ目を瞬かせた。
「……いいの?」
「もちろん」
澪は一瞬だけ遠慮するみたいにしたけれど、次のカーブでまた車体が揺れると、小さく息をこぼした。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
そう言って、そっとこちらへ寄ってくる。
肩に触れる重みは軽い。でも、さっきまでより少しだけ力が抜けたのがわかった。
「少しはまし?」
「……うん」
澪は目を閉じるまではいかないけれど、視線を前に向けたまま小さく答える。
「ありがとう」
その声がやわらかくて、でも弱っているぶんだけ余計に近く感じた。
バスは容赦なく揺れる。
右へ、左へ、ときどき大きく体が持っていかれる。
澪は肩にもたれたまま、できるだけ動かないようにしているみたいだった。
「あとどれくらい?」
小さな声で聞かれて、俺は車内表示を確認する。
「もう半分は過ぎたと思う」
「……そっか」
その返事には、安心と、まだあるのかという気持ちが半分ずつ混じっていた。
「着いたら少し休もう」
「うん……」
「急がなくていいから」
そう言うと、澪はほんの少しだけこちらを見る。
「……やさしい」
「今はそういうのいいから、楽なことだけ考えて」
「うん……」
澪はまた前を向く。
その横顔は、朝食のときの楽しそうな顔とは全然違う。少しだけ眉が寄っていて、唇もきゅっと結ばれている。
たぶん、本人は思っている以上にしんどい。
それでもちゃんと「ちょっときつい」と言ってくれたことが、少しだけうれしかった。
頼ってくれている感じがしたからかもしれない。
窓の外の景色は、もうほとんど山だった。
緑の斜面。曲がりくねった道。ところどころで視界が開けて、下のほうに道が見える。
本当なら、もっと景色を楽しめたのかもしれない。でも今はそれどころじゃない。
澪の呼吸のほうが気になる。
「……大丈夫?」
もう一度聞くと、澪は少しだけうなずいた。
「……吐きそうとかじゃないから、大丈夫」
「ならよかった」
「でも、早く着いてほしい……」
その本音に、思わず少しだけ笑いそうになる。
もちろん、笑えるような状況じゃないから、声には出さない。
「もうすぐだと思う」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんかあ……」
弱った声でそんなふうに返されると、逆に愛しくて困る。
今そんなことを思うのは不謹慎かもしれない。でも、弱っているときにだけ見せる素直さみたいなものがあって、それが胸にくる。
もちろん、可愛いからいい、で済ませるつもりはない。早く着いてほしいし、少しでも楽になってほしい。
でも同時に、こうして頼ってくれることがうれしいのも本当だった。
やがて、バスの揺れ方が少し変わる。
さっきまでの連続したカーブが減って、道が少し落ち着いてきた。
「……あ」
澪が小さく声を漏らす。
「どうした?」
「ちょっと、ましになったかも」
その言葉に、俺も少しだけ息をつく。
「もう下りきったのかもな」
「ならよかった……」
澪はそう言って、肩にもたれたままほんの少しだけ力を抜いた。
車内アナウンスが流れる。
次が横川だとわかって、ようやく本当に終わりが見えた。
「着くよ」
そう言うと、澪は目を閉じる寸前みたいな顔で小さくうなずく。
「……助かった」
その一言に、こっちまで力が抜ける。
バスがゆっくり速度を落としていく。
窓の外に、横川の停留所と、その周辺の景色が見えてきた。
山を越えた先の空気は、軽井沢とはまた少し違って見える。
完全に停車すると、澪はゆっくり体を起こした。
「大丈夫?」
聞くと、澪は少しだけ深呼吸してから答える。
「……うん。降りたらたぶんもっと平気になる」
「無理するなよ」
「しない」
そう言って、澪は少しだけこちらを見て笑った。
まだ本調子ではないけれど、朝食会場で見せていたようなやわらかい表情が、ほんの少し戻ってきている。
「……ありがと」
「何が?」
「さっき、肩貸してくれたの」
その声は小さかったけれど、ちゃんと届いた。
「それくらい普通だよ」
「うん。でも、すごく助かった」
そう言って、澪はまた少しだけ笑う。
その笑顔を見て、ようやく本当に着いたんだと思えた。
俺たちは席を立って、揺れの余韻がまだ少し残る足元に気をつけながら、横川の停留所へ降り立った。
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