出かける前に少しだけ甘えるはずが、旅館の部屋で彼女が可愛すぎて、結局「横川行かない?」と誘われるまでずっと幸せだった
「……ねえ、このあと出かける前に、もう少しだけ甘えてもいい?」
澪はそう言って、俺の肩に頭を預けたまま、少しだけこちらを見上げた。
朝の光が差し込む部屋の中で、その表情は昨夜よりもやわらかくて、朝食会場にいたときよりもずっと近い。
「いいよ」
そう答えると、澪はほっとしたように目を細めた。
「よかった」
「断ると思った?」
「ちょっとだけ」
「なんで」
「だって、そろそろ出かける準備しなきゃって思ってそうだったから」
その読みはたしかに半分くらい当たっていた。
時間を考えれば、このままずっと部屋でのんびりしているわけにもいかない。せっかく軽井沢まで来たのだから、今日もどこかへ出かけたい気持ちはある。
でも、だからといって今この時間を切り上げたいかと言われると、それはまったく別の話だった。
「思ってたけど、澪が甘えたいならそっち優先」
そう言うと、澪は一瞬だけ目を丸くして、それから少し照れたように笑った。
「……そういうこと、さらっと言う」
「本音だから」
「知ってる」
その返しが、昨夜から何度も繰り返してきたやり取りみたいで、妙に心地いい。
澪は肩に頭を預けたまま、しばらく何も言わなかった。
ただ、本当に甘えるという言葉の通り、静かに体重を預けてくる。
その重みは軽いのに、胸の奥にはしっかり残る。
「……こういうの、好き」
澪がぽつりと言う。
「どれ?」
「何もしないで、ただくっついてるの」
その言い方があまりにも素直で、思わず息がやわらかくなる。
「俺も好きだよ」
そう返すと、澪は少しだけうれしそうに笑った。
「うん。なんか、落ち着く」
「朝食のあとだから余計かもな」
「それもある」
澪はそう言って、少しだけ肩に額を寄せる。
「お腹いっぱいで、眠くはないけど、ちょっとぼんやりしてて、でも幸せで」
その言葉の並べ方が、今の空気をそのまま表しているみたいだった。
「たしかにそんな感じ」
「でしょ」
「じゃあ今、かなりいい時間だな」
そう言うと、澪は小さく笑った。
「かなりいい時間」
そのまま、また少し沈黙が落ちる。
でも気まずさはまったくない。むしろ、言葉がないほうが今の距離にはちょうどよかった。
しばらくして、澪が俺の袖をそっとつまんだ。
「……ねえ」
「うん?」
「昨日の夜も思ったけど」
「うん」
「あなたの隣、すごく落ち着く」
その言葉に、胸の奥が静かに熱くなる。
「それはよかった」
「うん」
澪は少しだけ顔を上げて、こっちを見る。
「なんか、ちゃんと安心できるの」
「安心?」
「そう」
澪は少しだけ考えるように視線を揺らしてから、ゆっくり続けた。
「楽しいときもそうだけど、こうやって何もしてないときに、いちばんわかるかも」
その言い方がやわらかくて、でもすごく本音っぽかった。
「何もしてないのに、一緒にいるだけで落ち着くのって、たぶんすごいことだよね」
「……たしかに」
「だから、好きなんだと思う」
その一言が、あまりにも自然に落ちてきて、一瞬返事が遅れる。
澪は自分で言ってから、少しだけ恥ずかしくなったのか、視線をそらした。
「……今の、ちょっと恥ずかしい」
「言ったあとに照れるのずるいな」
「だって、思ったまま言っちゃったから」
「うれしいけど」
そう返すと、澪はまた少しだけ笑った。
「ならよかった」
「で、今日はどう甘えるの?」
俺がそう聞くと、澪は少しだけ考え込む。
「どうって?」
「もう少し甘えたいって言ってたから」
「ああ……」
澪は少しだけ頬を赤くして、でも逃げずに答えた。
「……たぶん、こういう感じ」
そう言って、さらに少しだけ距離を詰めてくる。
肩だけじゃなく、腕も軽く触れるくらい近い。
「近いな」
「部屋だから」
またその便利な言葉。
思わず笑うと、澪も少しだけ笑った。
「あと」
「あと?」
「ちょっとだけ、甘やかしてほしい」
そのお願いに、今度はこっちが少しだけ黙る。
「甘やかす?」
「うん」
「具体的には?」
そう聞くと、澪は少しだけ迷ってから、本当に小さな声で言った。
「……頭なでてほしい」
その瞬間、胸の奥がきゅっとなる。
昨夜は澪が俺を甘やかしてくれた。今朝も、どちらかといえば澪のほうが素直に気持ちを言ってくれていた。
でも今は、ちゃんとしてほしいと頼ってくれている。
それがうれしくて、たまらなかった。
「いいよ」
そう言って、そっと澪の頭に手をのせる。
やわらかい髪に指が沈む。朝の支度を終えたばかりの整った髪なのに、触れるとちゃんと澪のぬくもりがある。
ゆっくり、やさしく撫でる。
澪は最初、少しだけ緊張したみたいに肩をこわばらせたけれど、すぐに力を抜いた。
「……ん」
小さく息をこぼす。
その反応が可愛すぎて、こっちの理性が危ない。
「どう?」
聞くと、澪は目を細めたまま答える。
「だめになる」
「そんなに?」
「うん」
澪は少しだけ笑って、でも頭を離さなかった。
「これ、思ってたよりずっと好きかも」
「初めて?」
「ちゃんとこういうふうにされるのは、たぶん」
その言い方に、また胸の奥が熱くなる。
「じゃあ、もう少し」
そう言って撫で続けると、澪は本当に気持ちよさそうに目を閉じた。
「……やさしい」
「澪が可愛いから」
反射的にそう言うと、澪は目を閉じたまま少しだけ笑う。
「またそれ」
「本当だから」
「今、頭なでられながら言われると、余計だめ」
その声が甘くて、朝の部屋の空気まで少しとろけるみたいだった。
しばらくそうしていると、澪がゆっくり目を開けた。
「……ねえ」
「うん?」
「今の、すごくよかった」
「それはよかった」
「うん」
澪は少しだけこちらを見上げて、照れたように笑う。
「なんか、ちゃんと甘やかされた感じする」
「満足した?」
「かなり」
「かなりなんだ」
「すごく」
その返しに、また笑ってしまう。
すると澪は、少しだけいたずらっぽい顔になる。
「でも、もうちょっとだけいい?」
「まだあるの?」
「ある」
きっぱり言ってから、澪は少しだけ姿勢を直した。
それから、今度は俺のほうをじっと見る。
「……顔見て」
「見てるけど」
「ちゃんと」
そう言われて、改めて澪の顔を見る。
朝の光の中で、少しだけ頬が赤くて、でも目はまっすぐだった。
「今日も、いっぱい好きって思ってる?」
その問いかけは、確認みたいでもあり、甘えみたいでもあった。
「思ってる」
即答すると、澪は少しだけ安心したように息をつく。
「よかった」
「澪は?」
「私も」
その返事も早かった。
「朝からずっと思ってる」
「それはうれしい」
「うん。だから、今日はどこ行ってもたぶん楽しい」
その言葉に、今日一日の輪郭が少しずつ見えてくる。
部屋でのんびりして、朝食を食べて、こうしてまた甘い時間を過ごして。その続きとして、これからどこへ行くのか。
澪は少しだけ考えるように視線を上へ向けた。
「……ねえ」
「うん?」
「せっかくだし、今日はちょっと足伸ばしてもいいかも」
「どこか行きたいところある?」
そう聞くと、澪は少しだけ楽しそうに笑った。
「あるかも」
「どこ?」
「まだ思いついたばっかりだけど」
そう前置きしてから、澪はソファからゆっくり立ち上がる。
俺もつられて立ち上がると、澪は部屋の窓のほうをちらっと見て、それからこっちを振り返った。
「……横川行かない?」
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