朝食のあと部屋に戻るだけのはずだったのに、彼女がずっと近くて、結局いちばん甘い時間になった
朝食を終えて席を立つと、澪はまだ少しだけ名残惜しそうに会場を振り返った。
「おいしかった……」
その言い方が本当に満足そうで、思わず笑ってしまう。
「そんなに?」
「そんなに」
澪はきっぱりうなずく。
「だし巻き卵もおいしかったし、焼き魚もおいしかったし、パンもおいしかったし」
「全部じゃん」
「全部よかったの」
そう言ってから、少しだけこちらを見上げる。
「あと、楽しかったし」
その一言が、朝食の最後にまた胸へ残る。
「それならよかった」
「うん。すごくよかった」
澪はそう言って、やわらかく笑った。
その笑顔を見ていると、朝食会場を出るだけなのに、なんだかひとつのイベントが終わったみたいな気分になる。
でも、本当はまだ終わっていない。
むしろ、朝食のあと部屋へ戻るまでのこの時間こそ、旅行の中でいちばん気が抜けて、いちばん自然に甘くなる時間なのかもしれなかった。
会場を出て廊下を歩き出す。
旅館の朝はすっかり動き始めていて、さっきより少しだけ人の気配が増えていた。それでも騒がしいわけではなく、落ち着いた静けさがちゃんと残っている。
澪は俺の隣を歩きながら、少しだけ満たされた顔をしていた。
「お腹いっぱい」
「見ればわかる」
「何それ」
「幸せそうな顔してる」
そう言うと、澪は少しだけ照れたように笑った。
「だって幸せだったし」
その返しがあまりにも素直で、また胸の奥がやわらかくなる。
「朝からそんなに満たされることある?」
「あるよ」
澪はそう言って、少しだけ歩幅をゆるめた。
「おいしい朝ごはん食べて、あなたと一緒にいて、しかも旅館だし」
「条件多いな」
「全部大事なの」
その言い方が可笑しくて、思わず笑う。
すると澪は、少しだけこちらへ寄ってきた。
肩が軽く触れるくらいの距離。
「……ねえ」
「うん?」
「さっきの続き、覚えてる?」
「さっきの続き?」
「朝食の最後に言いかけたやつ」
そこでようやく思い出す。
『このあと部屋戻ったらさ』
あの言葉の続きだ。
「覚えてる」
そう答えると、澪は少しだけ満足そうに目を細めた。
「よかった」
「で、何だったの?」
聞くと、澪は少しだけ視線を前に向けたまま、でも耳をほんのり赤くした。
「……部屋戻ったら、少しだけのんびりしたいなって」
その言い方が、あまりにも澪らしい。
何か特別なことを言うわけじゃない。でも、その少しだけのんびりの中に、二人で過ごす時間をちゃんと含めているのがわかる。
「いいよ」
そう答えると、澪はほっとしたように笑った。
「ほんと?」
「うん。むしろ俺もそうしたい」
その返事に、澪は少しだけうれしそうに目を細める。
「……よかった」
部屋へ向かう廊下は、朝の光がきれいだった。
窓の外には緑が見えて、軽井沢らしい澄んだ空気が感じられる。観光に出るなら早めに動いてもよさそうな朝だった。
でも今は、急ぐ気になれない。
澪も同じらしく、歩く速さは自然とゆっくりだった。
「今日、このあとどうする?」
澪が聞く。
「まだ決めてない」
「じゃあ、部屋で少し相談しよう」
「そうだな」
「でも、相談って言いながら、たぶんちょっとだらだらする」
その予告に、思わず笑ってしまう。
「もう決まってるじゃん」
「だって、今そういう気分だし」
澪はそう言って、少しだけ肩を寄せてくる。
「朝ごはんのあとって、なんかすぐ動くのもったいなくない?」
「わかる」
「でしょ」
そのまま、二人で同じテンポで歩く。
会話が途切れても気まずくない。むしろ、朝食の余韻と、昨夜から続いている甘い空気が、言葉のない時間までやわらかくしていた。
部屋の前に着く。
カードキーを取り出して扉を開けると、さっきまでいたはずの部屋なのに、少しだけ懐かしい感じがした。
「ただいまって感じする」
澪が小さく言う。
「たしかに」
「旅館なのに不思議」
そう言いながら、澪は部屋に入るとすぐにほっとしたように息をついた。
朝の光が部屋の中にも入っていて、昨夜とはまた違う表情を見せている。夜はやわらかく包み込むような空間だったけれど、朝はもっと明るくて、でも落ち着いていた。
澪は靴を脱いで、そのまま少しだけ伸びをする。
「……落ち着く」
「朝食会場もよかったけど、やっぱり部屋がいちばんか」
「うん」
澪は素直にうなずいた。
「ここ、昨日の夜からずっと好き」
その言い方に、俺は少しだけ笑う。
「部屋が?」
「部屋も」
澪はそこで少しだけ言葉を切って、ほんのり照れた顔で続けた。
「……ここであなたと話してた時間も」
その一言が、静かに胸へ落ちる。
「俺も好きだよ」
そう返すと、澪はやわらかく笑った。
「うん。知ってる」
部屋に戻った途端、不思議なくらい空気がゆるむ。
朝食会場では人目もあったし、廊下では外の空気もあった。でも部屋に戻ると、また二人だけの時間になる。
そのせいか、澪はさっきより少しだけ素直だった。
ソファのほうへ歩いていって、ぽすんと腰を下ろす。
「……ちょっと休憩」
「まだそんなに歩いてないだろ」
「気分の問題」
そう言って、澪は少しだけ笑う。
「ほら、こっち」
隣を軽く叩かれて、俺もその横に座る。
すると澪は、待っていたみたいに少しだけこちらへ寄ってきた。
「近いな」
思わずそう言うと、澪は平然とした顔で返す。
「部屋だから」
「便利な言葉だな」
「今日はいっぱい使うかも」
その返しが可愛くて、また笑ってしまう。
しばらく、二人で何も言わずに座っていた。
朝食の満足感と、部屋の落ち着いた空気と、隣にいる澪の体温。その全部がちょうどよくて、本当にこのまま少しだらだらしたくなる。
「……ねえ」
澪が小さく呼ぶ。
「うん?」
「さっき、朝食のとき楽しかったって言ったでしょう」
「うん」
「ほんとに楽しかったの」
澪はそう言って、少しだけこちらを見る。
「あなたが、私の食べてるところ見て笑うのとか」
「笑ってた?」
「ちょっと」
「可愛かったから」
反射的にそう言うと、澪はすぐに視線をそらした。
「……またそれ」
「本当だから」
「朝から何回言うの」
「思うたびに」
そう返すと、澪は少しだけ黙ってから、小さく笑った。
「じゃあ、今日いっぱい聞くことになるね」
「かもな」
「それはそれで困る」
「うれしいくせに」
そう言うと、澪は少しだけむっとした顔をして、でも否定しなかった。
その代わり、つないでいないほうの手で、そっと俺の袖をつまむ。
「……うれしいけど」
その小さな声が、やけに近く聞こえる。
「でも、言われるたびに照れる」
「慣れない?」
「慣れたくないかも」
その答えに、胸の奥がまたやわらかくなる。
「なんで?」
「だって、慣れたらもったいない」
澪は少しだけ照れたように笑った。
「ちゃんと毎回うれしいって思いたいから」
その言葉が、朝の部屋の静けさの中で、ひどくまっすぐに響く。
俺はすぐには返事ができなかった。
たぶん、同じことを思っていたからだ。
澪は少しだけ体を預けるみたいに、肩を寄せてくる。
「……このまま少し休んだら、支度して出かけようか」
「そうだな」
「でも、あとちょっとだけ」
「うん」
「今はまだ、部屋に戻ってきたばっかりだから」
その言い訳みたいな言い方が可愛くて、思わず笑う。
「何分くらい?」
「……気が済むまで」
「長そうだな」
「長いかも」
澪はそう言って、やわらかく笑った。
朝の光に包まれた部屋の中で、その笑顔は昨夜より少しだけ軽くて、でも同じくらい甘かった。
そして澪は、俺の肩にそっと頭を預けながら、本当に小さな声でつぶやく。
「……ねえ、このあと出かける前に、もう少しだけ甘えてもいい?」
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