朝食バイキングなのに、彼女が「あーん」しそうな距離で見てくるせいで、朝からずっと理性が試されている
朝食会場に入った瞬間、澪が小さく「わあ」と声を漏らした。
その反応だけで、来てよかったと思う。
広い会場には朝のやわらかい光が差し込んでいて、窓際の席にはすでに何組かの宿泊客が座っていた。料理の並ぶカウンターには、和食も洋食もきれいに並んでいて、焼き魚の香りと焼きたてのパンの匂いが混ざっている。
「すごい……」
澪は少しだけ目を丸くしたまま、料理の並ぶほうを見ていた。
「思ってたよりちゃんとバイキングだね」
「ちゃんとって何だよ」
「もっと旅館っぽく、最初から決まった朝食が出てくる感じかと思ってた」
「たしかに」
そう返すと、澪はうれしそうに笑った。
「これ、絶対迷う」
その言い方があまりにも楽しそうで、見ているこっちまで気分が軽くなる。
昨日はいろいろあった。でも今こうして、朝の光の中で澪が素直に目を輝かせているだけで、その全部が少し遠くなる気がした。
「どうする?」
俺が聞くと、澪は真剣な顔で料理台を見つめた。
「……一周する」
「慎重だな」
「大事なの」
澪はそう言って、少しだけこちらを見上げる。
「朝食って、最初の一皿でその日の幸福度が決まる気がする」
「大げさだな」
「でもわかるでしょ」
「ちょっとわかる」
そう答えると、澪は満足そうにうなずいた。
「でしょ」
そのまま二人で料理台をゆっくり見て回る。
和食コーナーでは、焼き魚、だし巻き卵、小鉢のおひたし、湯豆腐、味噌汁。洋食コーナーには、スクランブルエッグ、ソーセージ、ベーコン、サラダ、パン、フルーツ、ヨーグルト。
澪はひとつひとつ見ながら、いちいち小さく反応していた。
「これおいしそう」
「こっちも気になる」
「え、フレンチトーストある」
そのたびに、袖を軽く引かれたり、顔を寄せて話しかけられたりする。
朝食会場だというのに、距離が近い。
昨夜からずっとそうだけど、朝になっても澪は思っていたより自然に近くに来る。そのたびに、こっちは平然とした顔を保つのに少しだけ苦労する。
「何取るか決まった?」
聞くと、澪は少しだけ悩んだあと、真面目な顔で言った。
「和食っぽく始めて、途中で洋食に寄り道する」
「欲張りだな」
「旅行の朝だから」
昨日も聞いたその理屈に、思わず笑ってしまう。
それぞれ料理を取って席に向かう。
窓際の二人席。外の緑が見えて、朝の光がちょうどいい。
澪はトレーを置くと、自分の皿を見て少しだけ満足そうに笑った。
「いい感じ」
「ほんとだな」
澪の皿は、最初の宣言通り和食寄りだった。焼き魚、だし巻き卵、小鉢、ごはん、味噌汁。でも端のほうにはしっかり小さめのクロワッサンも乗っている。
「それ、もう寄り道してるだろ」
そう言うと、澪は少しだけ得意そうに笑った。
「先取り」
「計画性がない」
「あるの。これは計画的な欲張り」
その言い方が可笑しくて、また笑ってしまう。
「そっちは?」
澪が俺の皿を見る。
「意外と洋食多いね」
「朝はパン派かも」
「へえ」
澪は少しだけ興味深そうに身を乗り出した。
「じゃあ、あとでひと口もらっていい?」
その聞き方が自然すぎて、一瞬返事が遅れる。
「……いいけど」
「やった」
うれしそうに笑う澪を見て、朝からそんなに素直に喜ばれると困る、と思う。
「いただきます」
二人で手を合わせて、朝食が始まる。
最初は普通だった。
味噌汁がおいしいとか、焼き魚がふっくらしてるとか、パンが思ったより本格的だとか、そういう穏やかな会話。
でも、澪がだし巻き卵をひと口食べたあたりから、少しずつ空気が変わっていった。
「……おいしい」
澪はそう言って、本当に幸せそうな顔をした。
「そんなに?」
「うん。これ好き」
その顔があまりにもやわらかくて、思わず見入ってしまう。
すると澪が、箸を持ったままこちらを見る。
「なに?」
「いや、おいしそうに食べるなって」
そう言うと、澪は少しだけ照れたように笑った。
「だっておいしいんだもの」
「知ってる」
「じゃあ、これもひと口食べる?」
そう言って、澪はだし巻き卵を少し持ち上げた。
一瞬、本気で時間が止まる。
「……え」
「そんなに驚く?」
「いや、普通に」
「普通に?」
澪は少しだけ首をかしげる。
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃない」
即答してしまってから、自分でも少し早すぎたと思う。
澪はその反応に、少しだけうれしそうに目を細めた。
「じゃあ、はい」
箸でつまんだだし巻き卵を、ほんの少しだけこちらへ寄せてくる。
あーん、というほど露骨じゃない。でも、十分それに近い。
朝食会場で、周りに人もいるのに、澪は思っていたより平然としていた。
いや、平然としているように見えるだけで、耳は少し赤い。
たぶん、照れているのは同じだ。
それでもやるんだ、と思うと、余計に心臓に悪い。
俺はできるだけ自然を装って、だし巻き卵を口にする。
「……おいしい」
そう言うと、澪はふわっと笑った。
「でしょ」
その笑顔が、完全に成功した顔で、朝から可愛すぎて困る。
「じゃあ次、そっちのパン」
澪がすぐに言う。
「もう交換前提なんだ」
「だって気になるし」
そう言って、澪は少しだけ身を乗り出す。
近い。
朝の光の中で、そんなふうに期待した目で見られると、断れるわけがない。
俺はクロワッサンを少しちぎって差し出す。
「はい」
すると澪は、一瞬だけその手元を見て、それから少しだけいたずらっぽく笑った。
「食べさせてくれるの?」
「……違う」
「違うの?」
「違わないけど」
そう答えると、澪はくすっと笑った。
「じゃあ、もらう」
そう言って、澪は俺の手から直接クロワッサンを食べた。
その瞬間、本気で心臓が跳ねる。
距離が近い。近すぎる。
しかも澪は、食べたあとに少しだけ目を細めて、「おいしい」と笑った。
だめだろ、朝からこれは。
「……どうしたの」
澪が不思議そうに聞く。
「いや、なんでもない」
「顔ちょっと変」
「変じゃない」
「変」
澪はそう言って、でも楽しそうに笑っている。
絶対わかってやってる。
そのあとも、朝食は妙に甘かった。
「その焼き魚、骨ある?」
「取ってあげようか?」
「子どもじゃない」
「でも危なそう」
「そんなに不器用に見える?」
「ちょっとだけ」
そんなやり取りをしながら、結局俺が骨を取った魚を、澪が「ありがとう」と言って食べる。
ヨーグルトを取りに行くときも、「一緒に行こ」と自然に袖を引かれる。
席に戻れば、「それ何味?」と身を寄せて覗き込まれる。
いちいち距離が近い。いちいち可愛い。いちいち心臓に悪い。
でも、嫌じゃない。むしろ、ずっとこのままでいてほしいと思ってしまう。
食後のコーヒーと紅茶を前にして、ようやく少し落ち着いたころ。
澪はカップを両手で持ちながら、やわらかく笑った。
「朝ごはん、すごくよかったね」
「うん」
「おいしかったし」
「それは間違いない」
「あと、楽しかった」
その言い方に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「朝食でそんなに楽しくなる?」
「なるよ」
澪は少しだけ目を細める。
「だって、あなたと一緒だったし」
その一言が、静かな朝食会場の中でやけに近く響く。
「……朝からすごいこと言うな」
「ほんとだもの」
澪はそう言って、少しだけ照れたように笑った。
「昨日の夜からずっと思ってるけど、今日もたぶん、いっぱい好きって思う」
その言葉に、もう何度目かわからないくらい胸が揺れる。
「それは俺も同じ」
そう返すと、澪はうれしそうに目を細めた。
「じゃあ、今日は昨日より大変かもね」
「何が?」
「私たちが」
その答えが可愛くて、思わず笑ってしまう。
澪もつられて笑った。
朝の光の中で、その笑顔は昨日よりもっとやわらかく見えた。
そして澪は、カップを置いて、少しだけこちらへ身を寄せる。
「……ねえ、このあと部屋戻ったらさ」
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