朝、目が合った瞬間に昨日よりもっと好きだと確信したので、旅館のベッドの中で彼女といちばんやさしい会話をした
「よく眠れた?」
そう聞くと、澪はまだ少しだけ眠たそうな目のまま、ゆっくり瞬きをした。朝の光が障子越しにやわらかく差し込んでいて、その中で見る澪の表情は、昨夜よりもずっと無防備だった。
「……うん」
返ってきた声は、起きたばかりのせいで少しかすれている。それだけなのに、妙に胸の奥に残る。
「たぶん、思ってたよりちゃんと眠れた」
澪はそう言って、布団を少しだけ胸元まで引き上げた。
「そっちは?」
「俺もちゃんと寝たよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そう答えると、澪は少しだけ疑うような顔をした。
「なんか、先に起きてた人の顔してる」
「どんな顔だよ」
「ちょっと落ち着いてる顔」
その言い方が可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「それ褒めてる?」
「半分くらい」
澪はそう言って、まだ完全には起ききっていないみたいに、少しだけ目を細めた。その顔があまりにもやわらかくて、朝からまた心臓に悪い。しばらく、どちらもすぐには起き上がらなかった。
ベッドの中の空気はあたたかくて、旅館の朝の静けさも心地いい。昨日の夜、あれだけ甘い会話をしたのに、朝になったらまた別のやわらかさがあるのが不思議だった。澪は枕に半分顔を埋めるみたいにしながら、こちらを見ている。
「……なんか変な感じ」
「何が?」
「起きたらすぐ隣にいるの」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れる。
「嫌だった?」
そう聞くと、澪はすぐに首を横に振った。
「嫌じゃない」
「ならよかった」
「むしろ、ちょっとうれしい」
その言い方があまりにも素直で、思わず息が止まりそうになる。澪は自分で言ってから少し照れたのか、視線を布団のほうへ落とした。
「……でも、起きた瞬間に目が合うのはちょっと恥ずかしい」
「今さら?」
「今さらなの」
澪は小さくむっとした顔をする。
「昨日の夜とはまた違うでしょう」
「どう違うの?」
「朝だから」
「説明になってない」
そう言うと、澪は少しだけ考えてから、言葉を探すみたいにゆっくり続けた。
「夜は、ちゃんと気持ちを作って話してた感じなの」
「うん」
「でも朝は、起きた瞬間だから、何も整ってないまま会う感じで……」
そこで少しだけ言葉を切って、澪はほんのり頬を赤くした。
「それで目が合うと、なんか全部見られたみたいで恥ずかしい」
その説明が澪らしくて、胸の奥がくすぐったくなる。
「全部って?」
「寝起きの顔とか、ぼんやりしてるところとか」
「可愛かったよ」
反射みたいにそう言うと、澪はぴたりと止まった。
数秒遅れて、耳まで赤くなる。
「……朝からそれ言うの?」
「本当のことだから」
「昨日もそればっかり言ってた」
「今日もそう思ったから」
そう返すと、澪は完全に言葉に詰まったみたいだった。布団を少しだけ引き上げて、顔を半分隠す。
「……ずるい」
「また言った」
「だってほんとにずるい」
でもその声は、ちゃんとうれしそうだった。少しして、澪は布団の中で小さく身じろぎした。
「ねえ」
「うん?」
「昨日、ちゃんと眠れたって言ったけど」
「うん」
「ほんとは、寝る前にちょっとだけどきどきしてた」
その告白に、思わず笑いそうになる。
「ちょっとだけ?」
「……ちょっとよりは、もう少し」
澪は少しだけ視線をそらした。
「だって、あんなに好きって言われたあとだったし」
「それは俺も同じ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そう答えると、澪は少しだけ安心したみたいに目を細める。
「ならよかった」
「澪は?」
「私?」
「昨日のあと、眠る前に何考えてた?」
そう聞くと、澪は少しだけ考え込んだ。
「……いっぱい」
「たとえば?」
「今日のこと全部」
澪は枕に頬を寄せたまま、静かに続ける。
「上野で会ったときのこととか、新幹線のこととか、旧軽井沢で歩いたこととか、ご飯のこととか」
そこまで言って、少しだけ声をやわらかくした。
「あと、最後に好きって言ってくれたこと」
その一言が、朝の静かな空気の中でやけに近く聞こえる。
「夢に出た?」
聞いてみると、澪は少しだけ笑った。
「出たかも」
「ほんとに?」
「うん。でも、ちゃんと覚えてない」
「どんな感じだった?」
「楽しかったところばっかり残ってる感じ」
その答えに、昨夜澪が言っていたいいところだけ集めた夢を思い出す。
「じゃあ、いい夢だったんだな」
「たぶん」
澪はそう言って、少しだけこちらへ近づくように寝返りを打った。距離が、さっきより少しだけ縮まる。
「そっちは?」
「俺?」
「夢見た?」
その問いに、一瞬だけ答えに迷う。見た。かなりはっきり見た。しかも、今日一日のことを振り返りながら、そのとき言わなかった本音まで思い出すような夢だった。でもそれをそのまま言うのは、少し照れくさい。
「見たよ」
「どんな夢?」
澪が興味ありそうに目を向けてくる。
「今日のことをいろいろ思い出してた」
「へえ」
「上野で会ったときとか、新幹線とか、旅館に着いてからのこととか」
そこまで言うと、澪は少しだけうれしそうに笑った。
「私と同じかも」
「かもな」
「で、どこがいちばん印象に残ってた?」
その質問に、また少しだけ迷う。本当はいっぱいある。朝の待ち合わせも、新幹線も、旧軽井沢も、夕食のときも、夜の会話も。でも、今この朝の空気の中でいちばん言いたいのは、たぶん別のことだった。
「起きたとき」
そう答えると、澪がきょとんとする。
「起きたとき?」
「うん。今」
その意味が伝わるまで、ほんの少し間があった。次の瞬間、澪の頬がまた赤くなる。
「……それ、反則」
「なんで」
「朝からそんなこと言われたら、また変になる」
「もうなってる?」
「なってる」
きっぱり言い切ってから、澪は少しだけ笑った。
「でも、うれしい」
その笑い方がやわらかくて、胸の奥がまたあたたかくなる。旅館の朝は静かだった。外の光は少しずつ強くなっているのに、このベッドの中だけはまだ、夜の続きみたいなやさしさが残っている。澪はしばらく黙っていたけれど、やがて小さくつぶやいた。
「……昨日より、今日のほうが好きかも」
その言葉に、一瞬本気で息が止まりそうになる。
「朝からすごいこと言うな」
「ほんとだもの」
澪は少しだけ照れながらも、ちゃんとこっちを見ていた。
「昨日いっぱい好きって思ったのに、起きたらまた増えてる感じする」
「それは、俺も同じ」
そう返すと、澪は少しだけ目を丸くして、それからうれしそうに笑った。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、今日も増えるかな」
「たぶん増える」
「そんな簡単に言う」
「だって、もう朝から増えてるし」
そう言うと、澪はまた布団に顔を少し埋めた。
「……ほんとに、朝からだめ」
「何が?」
「幸せすぎて」
その一言が、静かに胸へ落ちる。俺はすぐには返事ができなかった。たぶん、同じことを思っていたからだ。少しして、澪が布団の中からそっと手を伸ばしてきた。
「……手」
「うん」
「ちょっとだけ」
その言い方が可愛くて、何も言わずに手を重ねる。指先が触れて、そのまま軽くつながる。昨夜、眠る前に触れていたときと同じなのに、朝だとまた違うあたたかさがあった。
「落ち着く」
澪が小さく言う。
「俺も」
「ほんと?」
「ほんと」
そう答えると、澪は安心したみたいに目を細めた。
「……起きたくなくなるね」
「それはちょっとわかる」
「でしょ」
「でも朝食あるぞ」
「現実的」
「大事だろ」
そう言うと、澪はくすっと笑った。
「うん。でも、あと少しだけこのままがいい」
「いいよ」
「ほんとに?」
「うん」
その返事に、澪はまたやわらかく笑う。
「……やさしい」
「澪が可愛いから」
「またそれ」
「本当だから」
澪はもう反論しなかった。ただ少しだけ照れた顔のまま、つないだ手をほんの少しだけ握り返す。朝の光は、もうすっかり部屋の中に広がっていた。今日が始まる。軽井沢での二日目が始まる。
でもその前に、昨日の続きみたいなこの時間を、もう少しだけ大事にしていたかった。そして澪は、つないだ手を見つめたまま、少しだけいたずらっぽく、でもちゃんと照れた声で言う。
「……ねえ、起きる前にもうひとつだけ、言ってほしいことあるんだけど」
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