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旅館のベッドに入るだけのはずだったのに、彼女に「今日の最後に好きって言って」とお願いされた夜が甘すぎて眠れない

「……だめ?」


澪がそう聞いたあと、 部屋の中は一瞬だけしんと静かになった。


今日の最後に、 ちゃんと好きって言ってほしい。


そのお願いは、 派手じゃないのにひどく甘くて、 しかも澪らしかった。 もっと大胆なことじゃなくて、 でも確かに心のいちばん近いところに触れてくるような願い方。


俺は少しだけ息をついて、 澪を見る。


温泉上がりのやわらかさも、 長い一日の疲れも、 眠気も、 全部そのまま残っているはずなのに、 今の澪はそれ以上に、 まっすぐこっちを見ていた。


「だめじゃない」


そう答えると、 澪はほっとしたように目を細めた。


「よかった」


「でも、 そんなふうに言われると緊張する」


「私だって緊張してる」


澪は少しだけ唇を尖らせる。


「お願いするの、 すごく勇気いったんだから」


「それはそうか」


「そうよ」


その返しが少しだけ可愛くて、 思わず笑いそうになる。 でも今笑ったらたぶん澪はまた照れてしまうから、 ちゃんとこらえた。


俺は澪のほうへ一歩だけ近づく。


「じゃあ、 ちゃんと言う」


そう言うと、 澪は小さくうなずいた。


部屋の灯りはもう落としてあって、 さっきまでよりずっとやわらかい。 豪華な部屋なのに、 今は広さよりも静けさのほうが強く感じられた。


「今日、 朝からずっと思ってた」


俺はゆっくり言葉を選ぶ。


「澪と一緒にいられてよかったって」


澪は何も言わずに聞いている。


「楽しいときも、 ちょっと大変だったときも、 最後にこうして落ち着けたのも、 全部澪がいたからだと思う」


澪のまつげが、 わずかに揺れた。


「だから」


そこで一度息をついて、 ちゃんと目を見て言う。


「好きだよ。 今日も、 前よりもっと」


その瞬間、 澪の表情がやわらかくほどけた。


うれしそうで、 照れていて、 でも安心したみたいな顔だった。


「……うん」


返ってきたのは、 それだけだった。


でもその一言に、 いろんな気持ちが全部入っているのがわかった。


「それで十分?」


そう聞くと、 澪は少しだけ笑った。


「十分すぎる」


「ならよかった」


「よくないかも」


「どっちだよ」


「だって、 また好きが増えたから」


その言い方があまりにも澪らしくて、 今度こそ笑ってしまう。


澪もつられて笑った。


その笑い声が、 夜の静かな部屋にやさしく広がる。




「……じゃあ、 ほんとに寝る準備しよっか」


澪がそう言って、 少しだけ名残惜しそうに視線を外した。


「そうだな」


俺たちはそれぞれ最後の身支度を整える。


洗面台の前で歯を磨いて、 髪を軽く直して、 使ったタオルをたたんで置く。 そんな何でもない動作まで、 今日は妙にゆっくりだった。


たぶん、 どちらもこの一日の終わりを急ぎたくなかったのだと思う。


鏡越しに目が合うたび、 澪は少しだけ照れたように笑う。 俺もつられて笑ってしまう。


「なんか変」


澪が歯ブラシを置きながら言う。


「何が?」


「さっき好きって言われたあとだから、 目が合うだけでちょっと恥ずかしい」


「今さら?」


「今さらなの」


澪はそう言って、 頬に少しだけ手を当てた。


「今日、 何回も好きって思ったし、 何回も言ったけど、 最後に改めて言われるとだめ」


「だめって、 いい意味で?」


「もちろん」


その答えに、 胸の奥がまたあたたかくなる。




身支度を終えて、 部屋の中へ戻る。


ベッドは広くて、 シーツもきれいに整えられていて、 いかにも高級旅館らしい落ち着いた雰囲気だった。


澪はベッドの端に腰かけて、 ふうっと小さく息をつく。


「……ほんとに一日終わるんだね」


「長かったな」


「長かった」


澪はそう言って、 両手を後ろについて少しだけ天井を見上げた。


「でも、 終わるのちょっとさみしい」


「明日もあるだろ」


「あるけど、 今日のことは今日だけだから」


その言い方に、 俺は静かにうなずく。


たしかにそうだった。 今日の出来事も、 今日の気持ちも、 この夜の空気も、 全部今日だけのものだ。


だからこそ、 このまま眠りに入る前の時間まで、 ちゃんと覚えていたいと思う。


「明日、 起きたらどう思うかな」


澪がぽつりと言う。


「何を?」


「今日のこと」


少し考えてから、 澪は続けた。


「楽しかったこともいっぱいあるし、 大変だったこともあったし、 たぶん夢に出てきそう」


その言葉に、 俺は少しだけ笑う。


「出てきそうだな」


「でしょ」


「でも最後は、 旅館で澪に甘やかされた記憶が勝つと思う」


そう言うと、 澪は少しだけ目を丸くして、 それからうれしそうに笑った。


「それならいい」


「むしろそうなってほしい」


「私も」


澪はそう言って、 ベッドの上に手を置いたまま、 やわらかく目を細める。


「今日の最後の記憶、 ちゃんとやさしいものにしたい」


その一言が、 静かに胸へ落ちる。


たぶん澪も、 昼間のことを完全に忘れたわけじゃない。 でもそれ以上に、 最後をあたたかい気持ちで閉じたいと思っている。


俺も同じだった。




「入ろっか」


俺がそう言うと、 澪は小さくうなずいた。


「うん」


二人でベッドに入る。 シーツの感触はなめらかで、 布団は軽いのにちゃんとあたたかい。


横になると、 さっきまでより一気に眠る準備が整った感じがした。


澪は布団を胸元まで引き上げて、 少しだけこちらを見る。


「……近いね」


「ベッドだからな」


「そうだけど」


澪は少しだけ笑って、 それから安心したみたいに息をついた。


「なんか、 落ち着く」


「それならよかった」


「うん」


部屋の灯りはもうほとんど落としてあって、 輪郭だけがやわらかく見える。 そんな中で見る澪の表情は、 昼間よりずっと穏やかだった。


「眠れそう?」


聞くと、 澪は少し考えてから答える。


「たぶん」


「たぶん?」


「まだちょっとだけ、 今日のこと考えてるから」


「どのへん?」


そう聞くと、 澪は少しだけ笑った。


「いっぱいありすぎる」


「たとえば?」


「上野で会ったときのこととか、 新幹線のこととか、 旧軽井沢で歩いたこととか、 温泉とか、 ご飯とか」


そこまで言って、 澪は少しだけ声をやわらかくした。


「あと、 さっき好きって言ってくれたこと」


その言葉に、 胸の奥がまた静かに熱くなる。


「それ、 夢に出るかもな」


「出たらうれしい」


「どんな夢?」


「今日のいいところだけ集めた夢」


澪はそう言って、 少しだけ目を細めた。


「大変だったところはぼんやりしてて、 楽しかったところと、 うれしかったところだけ残るの」


「都合のいい夢だな」


「いいの。 夢なんだから」


その返しが可愛くて、 思わず笑う。


澪も少しだけ笑って、 それから布団の中で手を伸ばしてきた。


指先が、 そっと俺の手に触れる。


「……寝るまで、 これだけ」


「うん」


手をつなぐというほど強くじゃない。 でも、 離れないように軽く触れているだけで、 十分だった。




静かな時間が流れる。


もう会話は少なくなっていた。 眠気が少しずつ近づいてきて、 言葉よりも気配のほうが大きくなっていく。


それでも、 澪は完全に眠る前に、 もう一度だけ小さく口を開いた。


「ねえ」


「うん?」


「今日は、 一緒にいてくれてありがとう」


その声は、 昼間よりも、 夕食のときよりも、 さっき好きだと言い合ったときよりも、 ずっと静かで、 ずっとやさしかった。


「こちらこそ」


俺も同じくらいの声で返す。


「澪も、 ありがとう」


「うん」


「明日もよろしく」


そう言うと、 澪は少しだけ笑った気配を見せた。


「……こちらこそ」


それから、 ほんの少し間を置いて、 澪が先に言う。


「おやすみ」


その一言が、 今日という長い一日の最後にふさわしいくらい、 やわらかかった。


俺も静かに返す。


「おやすみ、澪」


澪はその呼び方に少しだけうれしそうにして、 目を閉じる。


つないだ指先のぬくもりが、 まだちゃんと残っている。


たぶんこのまま眠れば、 今日のことを夢の中でゆっくり振り返るんだろう。 楽しかったことも、 驚いたことも、 少し怖かったことも、 最後には全部、 この旅館の静かな夜に包まれていく。


そして、 眠りに落ちる直前。


澪の指先が、 ほんの少しだけこちらを握り返した気がした。

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