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旅館のベッドに入ったら彼女が「寝るの嫌かも」と言い出して、今日が終わってほしくない夜がいちばん甘くなりました

「……ねえ、 寝る前にもうひとつだけ、 お願いしてもいい?」


澪はそう言って、 俺の手を握ったまま少しだけ首をかしげた。さっきまでの甘い空気の延長にある声だったけれど、 今度のそれは少しだけ遠慮がちで、 でもちゃんと期待も混じっているように聞こえた。


「お願い?」


聞き返すと、 澪は小さくうなずく。


「うん」


「なに?」


そう促すと、 澪は一瞬だけ視線を伏せて、 それからまたこちらを見た。


「……おやすみって言う前に、 もう少しだけ近くにいてほしい」


その言葉は、 派手じゃないのにひどく甘かった。


何か特別なことを求めているわけじゃない。 ただ、 今日という長い一日の最後を、 もう少しだけ近い距離で過ごしたい。 そんな澪の気持ちがそのまま伝わってきて、 胸の奥がじんわり熱くなる。


「それ、 お願いっていうほどのことじゃないだろ」


そう言うと、 澪は少しだけ困ったように笑った。


「でも、 ちゃんと言いたかったの」


「うん」


「今日は、 ちゃんとそうしたいことを言う日にしたいから」


その言い方が澪らしくて、 思わず頬がゆるむ。


「じゃあ、 近くにいる」


そう答えると、 澪はほっとしたように目を細めた。


「……よかった」


俺たちはソファから立ち上がる前に、 もう一度だけ座り直した。今度はさっきよりも自然に、 澪が俺のすぐ隣へ寄ってくる。 肩が触れて、 腕が軽く触れて、 体温がちゃんと伝わる距離だった。澪はそのまま、 少しだけ俺のほうへ体を預ける。


「これくらい?」


「うん」


「もっと?」


冗談半分でそう聞くと、 澪は少しだけ考えるふりをしてから、 本当に少しだけさらに寄ってきた。


「……これくらい」


「素直だな」


「今日はそういう日だから」


また同じ言葉。 でも今日はその言葉が何度出てきても、 全部違う甘さを持っていた。しばらく、 二人とも何も言わなかった。


静かな部屋の中で、 聞こえるのはお互いの呼吸の気配くらいだ。 旅館のやわらかい灯りが、 部屋の中を落ち着いた色に染めている。澪は俺の肩に頭を預けたまま、 小さく息をついた。


「……安心する」


「それならよかった」


「うん。 今日、 やっとちゃんと終われそう」


その言葉に、 俺も静かにうなずく。


本当に長い一日だった。朝の待ち合わせから始まって、 新幹線、 旧軽井沢、 思いがけない出来事、 長い事情確認、 旅館、 温泉、 夕食、 そして今。


ひとつひとつを思い返すと濃すぎるくらいだったのに、 最後にこうして澪が隣にいてくれるだけで、 全部がやわらかくまとまっていく気がした。


「ねえ」


澪が肩にもたれたまま、 小さな声で呼ぶ。


「うん?」


「今日の私、 ちょっと甘えすぎたかな」


その問いかけに、 思わず笑いそうになる。


「ちょっとじゃないかも」


「やっぱり?」


「かなり」


そう言うと、 澪は少しだけ顔を上げて、 でも怒るでもなく、 むしろ照れたように笑った。


「……でも、 止めなかったでしょう」


「止める理由がない」


「ほんとに?」


「うん」


そう答えると、 澪はまた肩に頭を戻した。


「ならよかった」


その声があまりにも満足そうで、 胸の奥がくすぐったくなる。


「むしろ、 もっと甘えてもよかった」


そう言ってみると、 澪の体がぴくっと揺れた。


「それは……」


「それは?」


「それ以上言うと、 また調子に乗る」


「乗ればいいのに」


「だめ」


「なんで」


「私が恥ずかしいから」


その返しが可愛くて、 思わず笑ってしまう。澪は少しだけむっとしたように、 でも本気では怒っていない顔でこちらを見た。


「笑った」


「可愛いから」


「それ、 便利な言葉だと思ってない?」


「思ってない。 本当にそう思ってるだけ」


そう返すと、 澪はまた言葉に詰まる。今日の澪は、 何度もこうして照れて、 そのたびに少しずつ距離を縮めてきた。その全部が愛しくて、 たぶん俺もだいぶだめになっている。


少しして、 澪は俺の袖をそっとつまんだ。


「……ねえ」


「なに?」


「明日も、 今日みたいにいっぱい好きって思うかな」


その聞き方は、 前にも少し似たことを言っていたけれど、 今度はもっと静かで、 もっと本音に近い気がした。


「思うんじゃない?」


「そんな簡単に言う」


「簡単じゃないよ」


俺は少しだけ言葉を選ぶ。


「でも、 今日だけ特別っていうより、 たぶんこれからも増えるほうなんだと思う」


そう言うと、 澪はしばらく黙っていた。


それから、 本当に小さく笑う。


「……それ、 すごくうれしい」


「俺も」


「じゃあ、 明日もちゃんと好きでいてね」


「それは約束する」


「うん」


澪は満足そうにうなずいたあと、 少しだけいたずらっぽい声になる。


「私も好きでいてあげる」


「上からだな」


「サービスです」


「ありがたい」


そんなやり取りが、 たまらなく心地いい。激しい何かがあるわけじゃない。ただ、 好きな人と好きだと言い合って、 少し触れて、 少し笑って、 それだけで満たされていく。たぶん今夜は、 そういう夜だった。


やがて、 澪がまた小さくあくびをした。今度は完全に眠気が勝ち始めているらしい。目元が少しとろんとしていて、 声もさっきまでよりやわらかくほどけていた。


「……ほんとに眠いかも」


「知ってた」


「でも、 まだちょっとだけ起きてたい」


「あと五分?」


「十分」


「増えた」


「だって、 今日終わっちゃうし」


澪はそう言って、 少しだけ俺の袖を引く。


「でも、 寝るのも嫌じゃない」


「なんで?」


「だって、 起きたら明日になるでしょう」


その言い方が可愛くて、 胸の奥がまたやわらかくなる。


「たしかに」


「だから、 今日はちゃんと寝たい」


「いい心がけだな」


「褒めてる?」


「褒めてる」


そう言うと、 澪は少しだけ笑った。


「じゃあ、 寝る準備しようかな」


「そうだな」


俺たちはようやく立ち上がった。


さっきまで座っていた場所に、 二人の体温がまだ残っている気がする。澪は少しだけ名残惜しそうにソファを見てから、 それでもちゃんと前を向いた。


洗面台の前で軽く身支度を整えて、 部屋の灯りも少し落とす。豪華だった部屋は、 夜の終わりに合わせるみたいに、 さらに静かで落ち着いた空間になっていた。澪は髪を整えながら、 鏡越しにこちらを見る。


「なんか、 ほんとに寝るんだって感じするね」


「今さら?」


「だって、 さっきまでずっと話してたから」


「まだ話す?」


そう聞くと、 澪は少しだけ笑って首を横に振る。


「ベッド入ったら、 たぶんすぐ眠くなる」


「それは健康的でいい」


「でも、 その前に」


澪はそこで言葉を切って、 鏡越しじゃなく、 ちゃんと振り返って俺を見た。


さっきまでの眠たげな空気の中に、 ほんの少しだけ別の熱が混じる。


「おやすみって言う前に、 もう一回だけ」


「もう一回?」


「うん」


澪は少しだけ照れたように笑った。


「今日の最後に、 ちゃんと好きって言ってほしい」


そのお願いが甘すぎて、 一瞬、 言葉が出なくなる。


澪はそんな俺を見て、 少しだけ恥ずかしそうに目を細めた。


「……だめ?」


その聞き方が反則みたいに可愛くて、 胸の奥が大きく揺れる。


たぶん、 今日という一日の最後は、 まだもう少しだけ甘くなる。

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