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旅館の夜、彼女に「寝る前にひとつだけ」と言われたので覚悟したら、ただ好きが増えるだけの激甘時間が始まりました

「……その前に、 ひとつだけ」


澪はそう言ったあと、 すぐには続けなかった。

俺の手を握ったまま、 少しだけ視線を揺らしている。

言いたいことは決まっているのに、 それを口にしたあとの空気まで想像して、 自分で照れてしまっているみたいだった。


「ひとつだけ?」


できるだけやわらかく聞き返すと、 澪は小さくうなずく。


「うん」


「なに?」


そう聞くと、 澪はほんの少しだけ唇を結んで、 それから意を決したみたいにこちらを見た。


「……寝る前に、 もう一回だけちゃんと甘やかしたい」


その言葉は、 思っていたよりずっとやさしかった。

もっと大胆なことを言われるのかと、 ほんの少しだけ身構えていた自分がいた。

でも澪が言ったのは、 今日ずっと続いてきたやさしさの延長みたいな、 いかにも澪らしい願いだった。


「もう一回?」


「うん」


澪は少しだけ照れたように笑う。


「今日、 いっぱい甘やかしたつもりだったけど、 なんかまだ足りない気がして」


「足りないんだ」


「足りない」


きっぱり言い切ってから、 澪は少しだけ声を落とした。


「だって、 今日はほんとにいろいろあったし」


その一言に、 昼間から今までのことが静かによみがえる。


楽しいこともあった。 驚くこともあった。 緊張した時間もあった。

でも最後にこうして、 澪がもっと甘やかしたいと言ってくれることが、 何よりうれしかった。


「じゃあ、 お願いしようかな」


そう答えると、 澪はほっとしたように目を細めた。


「よかった」


「断ると思った?」


「ちょっとだけ」


「なんで」


「あなた、 たまに変なところで遠慮するから」


その言い方が妙に的確で、 思わず苦笑する。


「今日は遠慮しない」


「うん。 今日はしないで」


澪はそう言って、 つないでいた手をそっと引いた。


「こっち」


促されるまま、 俺はソファの奥へ少し移動する。

澪もその隣に座り直して、 今度は向かい合うんじゃなく、 ちゃんと同じ方向を向く形でぴたりと寄ってきた。

肩が触れる。 腕も少し触れる。 それだけなのに、 さっきまでよりずっと近く感じる。


「……近いな」


思わずそう言うと、 澪は少しだけこちらを見上げた。


「嫌?」


「嫌じゃない」


「ならいい」


そう言って、 澪は満足そうに小さく笑う。

その笑い方があまりにもやわらかくて、 胸の奥がじんわり熱くなる。


「で、 何してくれるの?」


聞いてみると、 澪は少しだけ考えるように首をかしげた。


「そうね……」


それから、 まるで当然みたいな顔で言う。


「まず、 褒める」


「褒める?」


「うん」


澪はそう言って、 俺のほうへ体を向けた。


「今日のあなた、 すごく頑張ってた」


その言葉がまっすぐすぎて、 一瞬返事に困る。


「そんなことないよ」


「ある」


澪はすぐに否定した。


「私が不安にならないようにしてくれてたし、 ずっと落ち着いてたし、 ちゃんと守ろうとしてくれてた」


「それは当たり前だろ」


「その当たり前がすごいの」


澪は少しだけ眉を寄せて、 でも声はやさしいままだった。


「あなた、 自分がしたことをすぐ当たり前って言うけど、 私はちゃんと助けられてたよ」


その言葉に、 胸の奥が静かに締めつけられる。


「だから、 今日はいっぱい褒めたいの」


「……それは、 照れる」


「知ってる」


澪は少しだけ得意そうに笑った。


「でも褒める」


そう言って、 本当にひとつずつ言葉を重ねていく。


「新幹線でちゃんと気にかけてくれたのもえらい」


「えらいって」


「軽井沢で、 すぐ動いてくれたのもえらい」


「子ども扱いしてない?」


「してない」


澪は真面目な顔で首を横に振る。


「警察署でも、 私のこと見ててくれたのもえらい」


「……うん」


「旅館に着いてから、 やっと少し安心した顔してくれたのもえらい」


そこまで言われると、 もうまともに澪の顔を見られなくなる。


「澪」


「なに?」


「それ以上はだめかも」


「なんで?」


「照れすぎる」


そう言うと、 澪はくすっと笑った。


「じゃあ、 次は別の甘やかしにする」


澪はそう言って、 少しだけ俺のほうへ向き直る。


「手、 貸して」


言われるままに差し出すと、 澪は両手でそっと包み込んだ。

あたたかい。

ただそれだけのことなのに、 妙に心臓にくる。


「……これ、 好き」


澪が小さくつぶやく。


「何が?」


「あなたの手」


その言葉に、 今度は本気で息が止まりそうになる。


「急にすごいこと言うな」


「本当だもの」


澪は俺の手を見つめたまま、 静かに続ける。


「大きくて、 あったかくて、 なんか安心する」


「そんなに?」


「そんなに」


それから、 少しだけ照れたように笑った。


「今日、 何回も助けてもらったからかも」


その笑い方がやさしくて、 胸の奥がまた熱くなる。


「澪の手も好きだよ」


そう返すと、 澪の指先がぴくりと揺れた。


「……そういうの、 不意打ち」


「お返し」


「ずるい」


「今日は何回目だろうな」


「いっぱい」


澪はそう言って笑いながらも、 手を離さなかった。

むしろ、 さっきより少しだけ強く包み込んでくる。

しばらくして、 澪はぽつりと言った。


「ねえ、 今日の最後に、 ちゃんと覚えておいてほしいことがあるの」


「覚えておいてほしいこと?」


「うん」


澪はゆっくり顔を上げる。


「今日、 大変なこともあったけど、 私はこの旅行、 ちゃんと来てよかったって思ってる」


その言葉に、 胸の奥がじんとする。


「それはよかった」


「それに」


澪は少しだけ息を整えてから、 続けた。


「今日一日で、 前よりもっと好きになったのも本当」


「……うん」


「だから、 もしあなたが、 昼間のこととか気にして、 私に嫌な思いさせたかもってまだ思ってるなら」


そこで澪は、 俺の手を包んだまま少しだけ力を込めた。


「それは違うって、 ちゃんと覚えてて」


その声はやわらかいのに、 まっすぐだった。


俺は少しだけ黙って、 それから静かにうなずく。


「覚えておく」


「うん」


「でも、 たぶん何回かまた気にする」


そう言うと、 澪は少しだけ呆れたように笑った。


「そのたびに私が言う」


「何て?」


「好きだから大丈夫って」


その一言が甘すぎて、 胸の奥がきゅっとなる。


「……反則だろ」


「今日はそういう日なの」


澪はまた同じことを言って、 今度は本当にうれしそうに笑った。

時間はもうかなり遅くなっていた。

部屋の空気も、 少しずつそろそろ休む時間の静けさに変わっていく。

それでも、 このまま話していたい気持ちはまだ残っていた。

澪も同じなのか、 すぐには立ち上がらず、 俺の手を包んだまま静かにしている。


「……眠い?」


聞くと、 澪は少し考えてから答えた。


「ちょっとだけ」


「さっきもそう言ってたな」


「今度はほんとにちょっとだけ」


「信用できない」


そう言うと、 澪は小さく笑って、 そのまま俺の肩にもたれかかった。


「でも、 まだ少しだけこうしてたい」


「うん」


「寝る前って、 なんかさみしいね」


そのつぶやきに、 俺は少しだけ驚く。


「さみしい?」


「だって、 今日が終わっちゃう感じするから」


澪は肩にもたれたまま、 静かに続ける。


「すごく長い一日だったのに、 終わるって思うと早い」


「たしかに」


「でも、 明日もあるんだけどね」


「あるな」


「それでも、 今日のこの時間は今日だけだから」


その言い方があまりにも澪らしくて、 胸の奥がやわらかくなる。


「じゃあ、 ちゃんと覚えておこう」


「うん」


「旅館で、 澪にめちゃくちゃ甘やかされた夜」


そう言うと、 澪は肩にもたれたまま笑った。


「めちゃくちゃではない」


「十分めちゃくちゃ」


「まだ足りないかも」


「これ以上は危ない」


「なにが?」


「俺が」


その返しに、 澪はまた楽しそうに笑う。


「じゃあ、 今日はこのくらいにしてあげる」


「助かるような、 助からないような」


「どっち?」


「半分ずつ」


「なにそれ」


そんな他愛ないやり取りをしているうちに、 澪が小さくもう一度あくびをした。

今度は隠しきれなかったらしい。 自分でも気づいたのか、 少しだけ恥ずかしそうに目を伏せる。


「……ほんとに眠くなってきた」


「だろうな」


「うん」


澪はそう言って、 ようやくゆっくり体を起こした。

でも、 すぐには離れない。

立ち上がる前に、 もう一度だけ俺の手をぎゅっと握る。


「じゃあ、 寝る準備しよっか」


「そうだな」


そう返すと、 澪は小さくうなずいた。

それから、 何かを言いかけるみたいに唇を開いて、 でもすぐには続けなかった。

視線だけが、 少しだけ熱を帯びてこちらに向く。


さっきまでの甘い空気とは少し違う、 もっと静かで、 もっと近い温度の沈黙が落ちる。

澪はそのまま、 ほんの少しだけ身を寄せてきて――


「……ねえ、 寝る前にもうひとつだけ、 お願いしてもいい?」

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