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「もし、私が今から――」って澪に言われてから少しずつ距離が近づいていき、最後は「そろそろ寝る?」って言われるまでずっと甘い時間でした

「もし、 私が今から――」


そこまで言って、 澪はぴたりと止まった。

さっきまで少しいたずらっぽかった表情が、 急に自分の言葉に追いつかれたみたいに赤くなる。

言おうとしたのは自分なのに、 その先を口にした瞬間の空気を想像して、 急に恥ずかしくなったのかもしれない。


俺は急かさずに待った。

こういうとき、 澪は少し時間を置いたほうが、 ちゃんと自分の言葉で話してくれる。

今日一日でそれがよくわかっていた。

澪は俺の腕に寄りかかったまま、 視線だけを少し泳がせる。


「……やっぱり、 なんでもない」


「ほんとに?」


そう聞くと、 澪はむっとしたようにこちらを見る。


「そうやってすぐ聞き返す」


「気になるから」


「気にしないで」


「無理」


即答すると、 澪は困ったように笑った。


「あなた、 今日ほんとに引かないね」


「澪が可愛いことばっかり言うから」


「またそういうこと言う」


澪は小さく息をついて、 でも完全には逃げなかった。

むしろ、 少しだけ覚悟を決めるみたいに背筋を伸ばす。


「……もし、 私が今からもっと甘えたら、 困る?」


その言葉は、 思っていたよりずっとやわらかかった。

何か大きなことを言うわけじゃない。

でも、 今の澪にとってはそれだけでも十分勇気がいるのがわかる。


「困らない」


そう答えると、 澪はじっと俺の顔を見た。


「ほんとに?」


「うん」


「ちょっとも?」


「むしろうれしい」


その返事に、 澪はまた耳まで赤くなる。


「……そういうの、 すぐ言う」


「本音だから」


「知ってる」


小さな声でそう言って、 澪はまた俺の腕に体を預けた。

さっきより少しだけ深く、 安心したみたいに寄りかかってくる。

その重みがうれしくて、 でも意識しすぎるとこっちまで変に緊張しそうで、 俺はなるべく自然に息をついた。


しばらく、 どちらも何も言わなかった。

静かな部屋の中で、 聞こえるのは時計の針の音でもなく、 外の風の音でもなく、 ただお互いの気配だけだった。

澪の髪が肩に触れる。 温泉上がりのやわらかい香りが、 まだほんの少し残っている気がした。


「……ねえ」


また澪が小さく呼ぶ。


「うん?」


「今日、 ほんとに長かったね」


「長かった」


「朝はまだ東京にいたのに、 今は軽井沢の旅館で、 こんなふうにしてるの、 ちょっと不思議」


「たしかに」


「しかも、 すごく濃かった」


澪はそう言って、 少しだけ笑う。


「新幹線で降りるの嫌だなって言ってたの、 もうずっと前みたい」


「でも今日のことなんだよな」


「そうなの。 変な感じ」


その言い方がやわらかくて、 俺もつられて笑ってしまう。


「でも、 今はちゃんと好きな一日の終わり方してる」


「好きな終わり方?」


「うん」


澪は少しだけ顔を上げて、 俺を見る。


「あなたとこうして、 のんびり話してる終わり方」


その言葉が静かに胸へ落ちる。


「俺も好きだよ」


「……それ、 ずるい」


「また?」


「また」


澪はそう言って、 でもうれしそうに目を細めた。

少しして、 澪はつないでいた手を見下ろした。


「手、 まだ離してないね」


「離す?」


そう聞くと、 澪はすぐに首を横に振る。


「離さない」


「即答だ」


「だって、 今はこのままがいいから」


その答えがあまりにも素直で、 胸の奥がまたあたたかくなる。


「澪って、 たまにすごくまっすぐ言うよな」


「たまにじゃない」


「そう?」


「今日は特別」


澪は少しだけ照れたように笑った。


「旅館だし、 温泉入ったし、 おいしいご飯食べたし、 いっぱい甘やかしたし」


「最後のが大きそう」


「大きい」


きっぱり言われて、 思わず笑う。


「あなた、 甘やかされるとちょっと素直になるでしょう」


「そうかな」


「そう」


澪は自信ありげにうなずく。


「膝枕してるときなんて、 だいぶだめになってた」


「それは澪のせい」


「私のせいでいいの」


そう言って、 澪は少しだけ得意そうに笑った。


「だって、 今日はあなたを甘やかすって決めてたから」


「いつ決めたの?」


「警察署で待ってるとき」


その答えに、 少しだけ驚く。


「そんな前から?」


「うん」


澪は視線を落として、 静かに続けた。


「あなた、 ずっと平気そうな顔してたけど、 たぶん私より疲れてたでしょう」


「……どうだろう」


「そういうところ」


澪は少しだけ眉を寄せる。


「自分のこと後回しにするの」」


その言い方には責める響きはなくて、 ただ心配していた気持ちがにじんでいた。


「だから、 旅館に着いたら絶対甘やかそうって思ってた」


その言葉がうれしくて、 でも同時に少し照れくさい。


「ありがとう」


「どういたしまして」


澪はそう言って、 今度は俺の肩にそっと頭を預けた。


さっきより自然で、 さっきより近い。


「……ねえ」


「うん?」


「ちゃんと効いてる?」


「何が?」


「だから、 甘やかし」


「効いてる」


「どれくらい?」


「かなり」


「具体的には?」


その聞き方が少しいたずらっぽくて、 思わず笑う。


「今、 このまま動きたくないくらい」


そう答えると、 澪は満足そうに小さく笑った。


「なら成功」


◆時間はゆっくり流れていた。

もう遅いはずなのに、 不思議と眠気はまだ遠い。

たぶん、 今日一日の出来事が多すぎて、 心のほうがまだ完全には静まりきっていないのだと思う。

それでも、 こうして澪と話していると、 少しずつ夜の終わりに向かっている感じがした。


「明日、 どうしようか」


澪がぽつりと言う。


「予定通り回る?」


「うーん……」


少し考えてから、 澪は笑った。


「たぶん、 朝起きたときの私に聞いたほうがいい」


「弱気だな」


「だって、 今日の疲れが明日どう出るかわからないもの」


「それはそうか」


「でも、 無理しないでのんびりしたい」


「じゃあそうしよう」


「ほんと?」


「旅行なんだから、 予定より澪優先」


そう言うと、 澪は少しだけ目を丸くして、 それからやわらかく笑った。


「……そういうこと、 さらっと言う」


「本音だから」


「知ってる」


今日、 何度目かわからないやり取りだった。 でも不思議と飽きない。

むしろ、 同じ言葉を何度も確かめたくなる夜だった。

やがて、 澪が小さくあくびをこぼした。

すぐに口元を押さえたけれど、 もう遅い。


「眠い?」


「……ちょっと」


「ちょっとじゃなさそう」


「少しだけ」


そう言い張る声が、 もうだいぶゆるんでいる。


「今日は朝からずっとだったもんな」


「うん……」


澪は俺の肩に頭を預けたまま、 少しだけ目を細める。


「でも、 まだこのままでいたい」


その言葉が甘くて、 胸の奥が静かに揺れる。


「俺も」


「でしょ」


澪は少しだけ笑った。


「なんか、 寝ちゃうのもったいない」


「わかる」


「せっかくこんなにいい夜なのに」


その言い方が、 今日という一日を大事に抱えているみたいで、 すごく澪らしかった。


「でも、 寝ないと明日つらいぞ」


「それもわかってる」


「じゃあどうする?」


そう聞くと、 澪は少しだけ黙った。

つないだ手に、 ほんの少しだけ力が入る。

それから、 俺の肩に頭を預けたまま、 本当に小さな声で言った。


「……そろそろ寝る?」


その一言だけで、 部屋の空気がまた少し変わる。

さっきまでの甘い会話の続きみたいでもあり、 今から先の時間の入口みたいでもあった。

俺はすぐには返事をしなかった。

できなかった、 のほうが近いかもしれない。


澪もたぶん、 ただ眠いからそう言ったわけじゃない。

その声のやわらかさで、 なんとなくわかってしまう。

静かな部屋。 近すぎる距離。 離れていない手。 肩に感じる澪の重み。

澪は少しだけ顔を上げて、 俺の返事を待つみたいにこちらを見た。


その目が、 さっきまでより少しだけ熱を帯びて見えて、 思わず息が止まりそうになる。

そして澪は、 俺の手を握ったまま、 もう一度だけ小さく唇を開いた。


「……その前に、 ひとつだけ」

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