夜の旅館で手をつないだまま、もう付き合ってるのに改めて好きが増えていく。僕たちの会話が甘すぎました
澪の「……ねえ」が、 静かな部屋の中にやわらかく落ちた。
俺の手を握ったまま、 澪は少しだけ視線を揺らしている。 言いたいことはあるのに、 それを口にしたら自分のほうが先に照れてしまうとわかっているみたいな顔だった。
「なに?」
できるだけやさしく聞くと、 澪はほんの少しだけ唇を結んでから、 小さく息を吐いた。
「……今日のあなた、 ずるい」
「またそれ?」
「またそれ」
澪はそう言って、 でも怒っているわけじゃなく、 むしろ困ったように笑った。
「だって、 いつもよりやさしいし、 いつもよりちゃんと見てくるし、 いつもより言葉がまっすぐなの」
「旅館補正かも」
「そういうこと言うところもずるい」
少しだけ頬をふくらませる澪が可愛くて、 思わず笑う。
すると澪は、 つないだ手をほんの少しだけ引いた。
「笑わないで」
「笑ってないよ」
「笑ってる」
「可愛いなって思っただけ」
その瞬間、 澪はまた言葉に詰まった。
本当にわかりやすい。 耳まで赤くなっていくのが見えて、 それだけで胸の奥があたたかくなる。
「……そういうの、 さらっと言わないで」
「本当のことだから」
「本当でも」
「だめ?」
そう聞くと、 澪は少しだけ視線をそらしたまま、 小さく首を横に振る。
「だめじゃない」
「じゃあいいじゃん」
「よくないの。 心臓に悪いから」
その言い方があまりにも澪らしくて、 また笑いそうになる。 でも今度はちゃんとこらえた。
手をつないだまま、 俺たちはソファに少し近づいて座り直した。
さっきまで向かい合っていた距離がなくなって、 肩が触れそうなくらい近い。
それだけで、 部屋の空気がまた少し変わる。
澪は自分から近づいたくせに、 その距離に慣れないみたいで落ち着かなさそうだった。
「そんなに緊張する?」
「する」
即答だった。
「だって、 さっきからずっと変なの」
「何が?」
「あなたに好きって言われたあとから、 全部意識しちゃう」
その言葉に、 今度はこっちの心臓が少し跳ねる。
「全部?」
「全部」
澪はそう言って、 ちらっと俺を見る。
「声とか、 目とか、 手とか」
そこまで言ってから、 自分で恥ずかしくなったのか、 澪は顔を伏せた。
「……もうやだ」
「なんで」
「こんなの言うつもりじゃなかったのに」
「でもうれしい」
「あなたはそうでしょうね」
「うん」
素直にうなずくと、 澪は少しだけ呆れたように笑った。
「ほんとに今日は隠さないね」
「隠す必要ある?」
「ないけど……」
澪はそこで言葉を切って、 つないだ手を見下ろした。
「ないけど、 私ばっかり照れてる気がする」
「じゃあ俺も照れてるって言ったら?」
「……ちょっと安心する」
「ちゃんと照れてるよ」
そう言うと、 澪はようやくこちらを見た。
「ほんとに?」
「ほんとに」
「全然そう見えない」
「見えないようにしてるだけ」
その返事に、 澪は少しだけ目を丸くする。
「そうなの?」
「澪が可愛すぎるから、 こっちまでいちいち顔に出してたら大変だろ」
今度こそ、 澪は完全に固まった。
数秒遅れて、 頬が一気に赤くなる。
「……ほんとに、 今日のあなた無理」
「ひどい言い方だな」
「褒めてるの」
「そうなんだ」
「そう」
澪は小さくうなずいて、 でもそのあとすぐに、 恥ずかしさをごまかすみたいに俺の肩へこつんと額を預けた。
その仕草があまりにも自然で、 一瞬息が止まりそうになる。
「澪」
名前を呼ぶと、 肩に額を預けたまま、 澪が小さく返事をする。
「……なに」
「それ、 反則」
「あなたにだけ言われたくない」
くぐもった声でそう返されて、 思わず笑ってしまう。
しばらくそのままでいると、 澪がぽつりとつぶやいた。
「今日ね、 何回も思ったの」
「うん」
「私、 あなたのこと好きなんだなって」
「知ってる」
「最後まで聞いて」
少しだけむっとした声に、 素直に「ごめん」と返す。
澪は肩に額を預けたまま、 ゆっくり続けた。
「好きなのは前からそうなんだけど、 なんか今日は、 それが何回も増えていく感じだったの」
「増えていく?」
「うん。 新幹線で隣にいるときも、 軽井沢で一緒に歩いてるときも、 温泉のあと髪乾かしてあげたときも、 ご飯のときに教えてくれたときも」
ひとつずつ数えるみたいに、 澪は静かに言葉を重ねる。
「そのたびに、 あ、 また好きになったって思ってた」
その言葉が甘すぎて、 胸の奥がじわっと熱くなる。
「そんなに?」
「そんなに」
「それ聞いたら、 俺も言いたくなる」
「……なにを?」
澪が少しだけ顔を上げる。
「俺も今日、 何回も好きになった」
そう言うと、 澪の目が少しだけ揺れた。
「朝、 待ち合わせで見つけたときからもう可愛かったし、 新幹線でアイス食べてるときも可愛かったし、 旧軽井沢で楽しそうにしてるのも可愛かったし、 温泉上がりに頬赤くしてるのも可愛かったし、 さっき高級料理の前で困ってるのも可愛かった」
「ちょっと待って」
澪が慌てて止める。
「それ、 好きっていうか可愛いしか言ってない」
「好きだから可愛いって思うんだよ」
「それは……」
言い返そうとして、 結局うまく言葉が出なかったらしい。 澪はまた顔を伏せてしまった。
「……ずるい」
「また言った」
「だってほんとにずるい」
でもその声は、 ちゃんとうれしそうだった。
少しして、 澪はようやく肩から顔を離した。
その代わり、 今度はもっと近くで俺を見る。
「ねえ」
「うん?」
「確認したいことがある」
「なに?」
澪は少しだけ真面目な顔になる。
「私、 今日かなり甘やかしたでしょう」
「うん」
「髪も乾かしたし、 膝枕もしたし」
「した」
「それで、 今もこうしてる」
つないだ手を、 澪がほんの少し持ち上げる。
「うん」
「……ちゃんと効いてる?」
その質問が可愛すぎて、 一瞬意味を考えるのが遅れた。
「効いてるって?」
「だから、 甘やかしが」
澪は少しだけ恥ずかしそうにしながらも、 ちゃんと最後まで言う。
「あなた、 今日ずっと頑張ってたから。 少しでも、 私といると安心するって思ってほしくて」
その言葉に、 胸の奥がきゅっとなる。
「思ってるよ」
「ほんとに?」
「うん。 今日いちばん安心したの、 澪に膝枕されたときかもしれない」
そう言うと、 澪はぱちぱちと瞬きをしたあと、 ふわっと笑った。
「……よかった」
その笑顔が、 あまりにもやさしい。
「じゃあ、 もっと甘やかしてもいい?」
「これ以上?」
「だめ?」
「だめじゃないけど、 俺がだめになる」
「いいの」
澪はさっき自分が言ったのと同じ言葉を返して、 少しだけ得意そうに笑った。
「今日はそういう日だから」
「澪、 それ気に入ったな」
「気に入った」
そう言って、 澪は今度は俺の腕にそっと寄りかかる。
肩にかかる重みは軽いのに、 心臓には全然軽くない。
「……ねえ」
また澪が呼ぶ。
「なに?」
「明日になっても、 今日みたいに好きって増えるかな」
その問いかけは、 冗談みたいに軽く聞こえるのに、 どこか本気だった。
「増えるんじゃない?」
「そんな簡単に言う」
「だって、 たぶんもう今日だけの話じゃないし」
そう返すと、 澪はしばらく黙っていた。
腕に寄りかかったまま、 何かを考えているみたいだった。
やがて、 本当に小さな声でつぶやく。
「……じゃあ、 明日はもっと大変かも」
「何が?」
「私が」
その答えに、 思わず笑ってしまう。
「それは楽しみだな」
「楽しみにしないで」
「無理」
「もう……」
澪は困ったように笑って、 でも離れなかった。
むしろ、 少しだけだけど、 さっきより深く寄りかかってくる。
部屋の灯りはやわらかくて、 外は静かで、 時間だけがゆっくり流れていく。
このままずっと話していたくなる夜だった。
そして澪は、 しばらく黙ったあとで、 何かを思いついたみたいにそっと顔を上げる。
「……ねえ、 じゃあさ」
その言い方が、 さっきまでと少し違った。
甘いだけじゃなくて、 どこかいたずらっぽくて、 でもちゃんと照れている声。
俺が続きを待つと、 澪はほんの少しだけ唇を結んでから、 またゆっくり開いた。
「もし、 私が今から――」
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