食後の静かな部屋に響いたノックの正体を確かめに行ったら、張り詰めていた空気が、見る影もなくユルユルになった
今回はノックのちょっと前から書きます。
食事を終えたあとの部屋には、 満ち足りた静けさが広がっていた。
さっきまでテーブルの上を彩っていた料理はきれいに片づけられ、 残っているのは、 ほのかに漂う余韻みたいな香りと、 温泉上がりのやわらかい空気だけだった。
澪はソファに浅く腰かけたまま、 まだ少しだけぼんやりしているように見えた。
豪華な夕食を食べ終えた満足感と、 今日一日の疲れがいっぺんに押し寄せてきているのかもしれない。
俺も向かいに座りながら、 しばらくは何も言わなかった。
無理に会話をつながなくても、 こうして同じ空間で静かにしているだけで十分だった。
むしろ、 今日はそういう時間のほうが必要な気がした。
窓の外はもうすっかり夜で、 旅館の庭に落ちる灯りが静かに揺れている。
昼間の慌ただしさが嘘みたいに、 今は何もかもが落ち着いていた。
「……おいしかったね」
しばらくして、 澪がぽつりとつぶやく。
「うん」
「最初は緊張して、 味わう余裕あるかなって思ったけど」
そこで澪は少しだけ笑った。
「ちゃんと全部おいしかった」
「それはよかった」
「あなたが教えてくれたから、 途中から楽しくなってきたし」
その言い方がやわらかくて、 俺も自然と笑ってしまう。
「そんな大したことしてないよ」
「した」
澪はすぐにそう言い切った。
「今日、 何回も助けられてる」
その言葉に、 胸の奥が少しだけ熱くなる。
「それなら、 よかった」
澪は小さくうなずいて、 それからテーブルの上に残っていた湯のみへ手を伸ばした。
ぬるくなったお茶をひと口飲んで、 ほっとしたように息をつく。
「なんか、 やっと今日がちゃんと一日としてつながった感じする」
「つながった?」
「うん。 朝からいろいろありすぎて、 途中までは場面がぶつ切りみたいだったの」
澪は言葉を選ぶように、 ゆっくり続ける。
「上野で待ち合わせして、 新幹線に乗って、 アイス食べて、 軽井沢に着いて、 それから……」
そこまで言って、 少しだけ表情が揺れる。
俺は何も言わずに待った。
「でも、 温泉入って、 ご飯食べて、 今こうしてると、 ちゃんと今日になった気がする」
「そっか」
「うん」
澪はそう言って、 少しだけ肩の力を抜いた。
その横顔を見ていると、 ようやくここまで来たんだなと思う。
楽しいだけの旅行初日ではなかった。
けれど、 こうして最後に落ち着ける時間があるだけで、 救われるものは確かにあった。
そのときだった。
部屋の外から、 控えめなノックの音が響いた。
コン、コン。
静かな部屋だったから、 その音は思ったよりはっきり聞こえた。
澪がぴくりと肩を揺らす。
俺も反射的に入口のほうを見る。
昼間のことがあったせいか、 ほんの一瞬だけ空気が張る。
さっきまでやわらかかった時間に、 細い糸みたいな緊張が差し込んだ。
「……誰だろう」
澪が小さな声で言う。
「確認してくる」
そう答えて立ち上がると、 澪も無意識みたいにこちらを見上げた。
「うん……」
その声には、 わずかに不安が混じっていた。
俺はできるだけ自然な足取りで扉のほうへ向かう。
旅館の部屋の入口までの数歩が、 妙に長く感じた。
もう一度、 ノックが鳴る。
今度は最初より少しだけ遠慮がちな音だった。
「はい」
扉越しに声をかけると、 外から落ち着いた女性の声が返ってきた。
「失礼いたします。 お休み前のお茶菓子をお持ちしました」
その一言で、 張っていたものが少しだけほどける。
扉を開けると、 そこにいたのは旅館のスタッフだった。
手には小さな盆があり、 上には湯気の立つ急須と、 上品に包まれた菓子が載っている。
「本日はこちらをお部屋にご用意しております」
丁寧な口調でそう説明されて、 俺はようやく完全に息をついた。
「あ、 ありがとうございます」
「お休み前にどうぞごゆっくりお召し上がりください」
スタッフは静かに一礼して、 必要以上に長居することなく去っていく。
扉を閉めると、 部屋の中の空気はまた元の静けさに戻った。
振り返ると、 澪がソファの上でほっとしたように息をついていた。
「……びっくりした」
「俺も」
盆を持って戻ると、 澪は少しだけ苦笑する。
「完全に身構えちゃった」
「今日は仕方ない」
「うん」
澪はそう言って、 自分の胸元にそっと手を当てた。
「なんか、 心臓が変な跳ね方した」
「大丈夫?」
「今は大丈夫」
そう答える声は、 さっきより少し落ち着いていた。
俺はテーブルの上に盆を置く。
急須からはやわらかい香りが立っていて、 包み紙にくるまれた菓子も、 いかにも旅館らしい上品な見た目だった。
「お茶菓子だって」
「こんな時間に?」
「お休み前らしい」
「すごいね……」
澪は少しだけ目を丸くして、 さっきまでの緊張をゆっくりほどくみたいに笑った。
二人で包みを開けると、 中には小ぶりで繊細な和菓子が入っていた。
「きれい」
澪が素直にそう言う。
「食べる?」
「うん」
俺が湯のみを用意すると、 澪はその様子を見ながら小さく笑った。
「今日、 ほんとにいろいろしてもらってる」
「お茶入れるくらいは普通だろ」
「でも、 そういう普通がうれしいの」
その言葉に、 手元が少しだけ止まる。
澪は気づいていないみたいに、 和菓子を見つめたまま続けた。
「豪華な旅館とか、 高級なご飯とか、 そういうのももちろんすごいけど」
そこで一度言葉を切って、 今度はちゃんと俺を見る。
「あなたが隣で、 当たり前みたいに気にかけてくれるのが、 いちばん安心する」
その視線がまっすぐで、 胸の奥が静かに熱くなる。
「……それは、 たぶんこれからも変わらない」
そう返すと、 澪は少しだけ目を見開いて、 それからやわらかく笑った。
「うん」
その笑顔は、 今日見た中でいちばん穏やかだった。
お茶を飲みながら、 俺たちはまた少しずつ話した。
旧軽井沢で食べたもののこと。 新幹線のアイスが硬すぎたこと。
グランクラスで澪が驚きすぎていたこと。 貸し切りだと伝えたときの顔が面白かったこと。
「面白くない」
澪はそう言いながらも、 ちゃんと笑っていた。
「だって本当にびっくりしたんだから」
「顔真っ赤だった」
「それは言わなくていいの」
少しだけ頬を染めて、 澪は湯のみを持ち直す。
「でも、 楽しかった」
「うん」
「途中でいろいろあっても、 ちゃんと楽しかったって思えるの、 たぶんすごいことだよね」
「そうかもな」
「あなたと一緒だったかな」
その言い方は、 冗談みたいに軽くはなかった。
でも重すぎるわけでもなくて、 ただ本音がそのままこぼれたみたいだった。
俺は何か返そうとして、 少しだけ言葉に迷う。
その前に、 澪のほうが先に口を開いた。
「……ねえ」
さっき、 食後に言いかけてやめたときと同じ呼び方だった。
今度は、 さっきより少しだけ真剣な声だった。
「なに?」
聞き返すと、 澪は湯のみをそっと置いた。
それから、 ほんの少しだけ息を整える。
視線が合う。
部屋の中は静かで、 外の音もほとんど聞こえない。
その静けさの中で、 澪の表情だけがやけにはっきり見えた。
言おうとしていることがある。 今度は、 たぶん本当に。
澪は一度だけ唇を結んで、 それからゆっくり開いた。
「……あのね」
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