初めて名前で呼び合った夜、先輩と手をつないだまま眠ることになりました
お風呂上がりの澪は、いつもより少しだけ無防備に見えた。
やわらかい部屋着に身を包んで、髪はまだ少しだけ湿っている。
その姿のまま当然みたいに俺の隣へ座って、手をつないで、肩を寄せてくる。
それだけなのに、さっきまでよりもずっとお泊まりの実感が強くなって、胸の奥が落ち着かなくなった。
「……やっぱり落ち着く」
澪が小さくつぶやく。
その声は、お風呂上がりのやわらかい空気に溶けるみたいに甘かった。
「俺も」
そう返すと、澪は少しだけ目を細めて笑った。
その笑顔があまりにも自然で、もう先輩と呼ぶより、もっと近い呼び方をしたくなる。
今日一日、枕を買って、棚を作って、歯ブラシを並べて、少しずつ俺の場所がこの部屋に増えていった。
その全部を一緒に喜んでくれたのが澪で、今こうして隣にいてくれるのも澪だ。
「……澪」
気づけば、口からその名前がこぼれていた。
澪は一瞬だけ目を丸くした。
でもすぐに、頬をほんのり赤くして笑う。
「……うん」
「その、これから……そう呼んでもいい?」
聞くと、澪は少しだけ照れたように視線を落として、それから小さくうなずいた。
「いい。むしろ、そう呼んでほしい」
その返事がうれしくて、胸の奥がじんわり熱くなる。
「じゃあ……澪」
「なに?」
名前を呼んだだけなのに、澪はすごくうれしそうだった。
その反応が可愛くて、俺まで笑ってしまう。
「いや、呼んでみたかっただけ」
「……ずるい」
澪はそう言って、つないだ手をきゅっと握った。
でもその顔は、どう見ても嬉しそうだった。
時間はもう遅くなっていて、映画も終わり、お菓子もだいぶ減っていた。
リビングの空気はすっかり夜の静けさに変わっていて、そろそろ寝る支度をしようか、という流れになる。
「じゃあ、寝室行こっか」
澪がそう言って立ち上がる。
そのときも、手は自然につながれたままだった。
寝室へ向かう短い距離さえ、今は妙に特別に感じる。
ベッドの上には、昨日までひとつだったはずの枕が二つ並んでいる。
そのうちのひとつが俺のものだと思うだけで、胸の奥がまたあたたかくなった。
「こうして見ると、やっぱりいいわね」
澪はベッドの前で立ち止まり、満足そうに枕を見つめる。
「二つ並んでるの、好き」
「今日ずっと言ってるな」
「だって好きなんだもの」
澪はそう言って笑い、それから自分の枕をぽんと軽く叩いた。
その仕草を見ていたら、ふといたずら心が湧いた。
俺は自分の枕を手に取って、軽く構える。
「……澪」
「え?」
「隙あり」
ぽすっ、と。
本当に軽く、やわらかく枕を投げる。
澪は「きゃっ」と小さく声を上げて、慌てて身をひねった。
枕は肩のあたりをかすめて、ベッドの上に落ちる。
「ちょ、ちょっと……!」
澪は目を丸くしたあと、すぐにむっとしたように頬をふくらませた。
「手加減してよ」
その言い方があまりにも可愛くて、思わず笑ってしまう。
「いや、かなり手加減したよ」
「したように見えなかった」
澪はほっぺをふくらませたまま、自分の枕をぎゅっと抱えた。
その姿がさっきエントランスで枕を抱えていたときと少し重なって、また胸がくすぐったくなる。
「じゃあ、今度は澪の番」
「……いいの?」
「もちろん」
そう言うと、澪は少しだけ目を輝かせた。
それから、おそるおそるみたいに枕を持ち上げる。
「ほんとに投げるわよ?」
「どうぞ」
次の瞬間、澪の枕がふわっと飛んできた。
勢いはまるでなくて、俺の胸にやさしく当たって落ちる。
「……やさしすぎない?」
そう言うと、澪はまた頬をふくらませた。
「だって、強くできないもの」
「それじゃ勝負にならないだろ」
「勝負するつもりないもの」
澪はそう言って、少しだけ照れたように笑った。
でもそのまま終わるのは悔しかったのか、
今度は少しだけ勢いをつけて枕を投げてくる。
俺はそれを受け止めて、また軽く投げ返した。
そこからは、本当に子どもみたいな枕投げになった。
ぽす、ぽす、と。
音までやわらかい、全然痛くない、ただ楽しいだけのやり取り。
澪は一度、俺の枕をひょいと避けてみせた。
でもそのあとすぐに、またほっぺをふくらませる。
「だから、手加減してよ」
「今のは完全に手加減してたって」
「でもびっくりした」
「それはごめん」
素直に謝ると、澪は少しだけ満足したようにうなずいた。
でも次の瞬間には、自分の枕で俺の腕をぽすっと叩いてくる。
「お返し」
「それはずるい」
「ふふ、知らない」
楽しそうに笑う澪を見ていると、こっちまでうれしくなる。
昼間の落ち着いた雰囲気も好きだけど、こうして無邪気に笑う澪もたまらなく愛しい。
ひとしきり遊んだあと、二人とも自然と笑い疲れて、ベッドの上に座り込んだ。
「……なんか、すごいお泊まり会っぽい」
澪が息を整えながら言う。
「たしかに」
「楽しい」
そう言って笑う澪の頬は、少し赤くなっていた。
枕を抱えたまま、満足そうに目を細めている。
「澪、ほんとに楽しそうだな」
「楽しいもの。藤崎くん……じゃなくて」
そこで澪は少しだけ言いよどんで、照れたように俺を見る。
「……名前、呼んでほしいなら、私も呼び方変えたほうがいい?」
その言葉に、胸がどきりと跳ねた。
「変えてくれるの?」
「うん。そのほうが、なんか……うれしいから」
澪はそう言って、少しだけ視線をそらす。
その仕草が可愛くて、思わず笑ってしまう。
「じゃあ、呼んで」
「……ふふ。まだちょっと恥ずかしい」
「俺だって恥ずかしいよ」
「でも、うれしいでしょ?」
「うれしい」
即答すると、澪は満足そうに笑った。
「私も」
その一言だけで、胸の奥がいっぱいになる。
そろそろ本当に寝よう、ということになって、俺たちはベッドに入る準備をした。
澪は布団を整えながら、何度も枕の位置を気にしている。
「こっちが私で、こっちが……」
「俺の、だろ?」
「うん」
澪はうれしそうにうなずいた。
「ちゃんとあるの、やっぱりいい」
そう言って、自分の枕と俺の枕を見比べる。
その表情があまりにも幸せそうで、見ているだけで胸があたたかくなった。
ベッドに入ると、当然だけど距離は近い。
広すぎるわけではないベッドの上で、互いの気配がすぐそばにある。
澪は最初こそ少し緊張したように布団を握っていたけれど、やがてそっとこちらを向いた。
「……おやすみ、って言うにはまだちょっと早い気がする」
「じゃあ、もう少し話す?」
「うん」
部屋の明かりはまだついている。
やわらかなオレンジ色の光の中で、澪の表情は昼間よりもずっと近く見えた。
「今日は、ほんとにうれしかった」
澪が静かに言う。
「枕も買えたし、棚も置けたし、歯ブラシも並んだし……それに、こうして一緒に寝るところまで来たし」
「全部、澪が作ってくれたんだろ」
「うん。でも、藤崎くんが……」
そこで澪は少しだけ笑って、言い直した。
「……あなたが、ちゃんと受け取ってくれたから」
その言葉がやさしくて、胸の奥がじんとする。
「受け取るよ。こんなにうれしいもの」
そう言うと、澪は少しだけ目を潤ませたみたいに見えた。
でもすぐに笑って、布団の中からそっと手を伸ばしてくる。
「手、つないで寝てもいい?」
「もちろん」
指を絡めると、澪は安心したように息をついた。
「……じゃあ、電気消すね」
「うん」
ぱちん、と。
部屋が暗くなる。
さっきまで見えていた表情は見えなくなって、代わりに気配とぬくもりだけが近くなる。
暗闇の中で、つないだ手だけがやけにはっきり感じられた。
澪の指は少しだけ冷たくて、でもすぐに俺の体温に馴染んでいく。
「おやすみ」
小さな声でそう言うと、澪も同じくらい小さな声で返してくる。
「おやすみ」
けれど、しばらくしても俺はなかなか眠れなかった。
隣に澪がいる。
同じベッドで、同じ布団の中で、手をつないだまま横になっている。
それだけで胸がいっぱいで、簡単に眠れるわけがない。
たぶん澪も同じなのか、ときどき小さく寝返りを打つ気配がする。
でも声はかからない。
静かな夜の音だけが、部屋の中にやわらかく満ちていた。
どれくらい経っただろう。
十分か、二十分か、もっと短かったかもしれない。
不意に、すぐ隣からかすかな囁き声がした。
「……ねぇ」
あまりにも小さな声で、最初は気のせいかと思った。
でも次の瞬間、もう一度、今度は少しだけはっきり聞こえる。
「……起きてる?」
澪だった。
暗闇の中で、本当にすぐ近くから聞こえる声。
その甘さに、胸がどきりと跳ねる。
「起きてる」
そう返すと、澪はほっとしたように小さく息をついた。
「……よかった」
「眠れない?」
聞くと、澪は少しだけ間を置いてから、恥ずかしそうに答えた。
「うん。なんか、どきどきして」
その言葉があまりにも可愛くて、暗闇の中なのに思わず笑ってしまう。
「俺も」
そう返すと、澪は布団の中で少しだけ近づいてきた気配がした。
つないだ手に、またそっと力がこもる。
「……少しだけ、話そ?」
その囁きは、眠る前の静かな夜に溶けるみたいにやさしかった。
俺は暗闇の中で、小さくうなずく。
「うん、話そう」
そうして、甘すぎるお泊まりの夜は、まだもう少しだけ続いていくのだった。
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