お風呂上がりも、先輩は甘すぎる
「じゃあ、もうちょっとだけ」
そう言った俺に、澪先輩は満足そうにうなずいた。
つないだ手に少しだけ力がこもって、そのぬくもりが胸の奥までじんわり広がっていく。
映画は流れ続けているのに、もう内容はほとんど頭に入ってこなかった。
先輩が肩にもたれかかっていて、片腕は俺の腰に回っていて、指先はしっかり絡んだまま。
そんな状態で平静でいられるほど、俺は余裕がなかった。
「藤崎くん」
「はい」
「眠くない?」
「まだ大丈夫です」
「そっか」
先輩はそう言って、俺の肩に頬をすり寄せるみたいに少しだけ位置を変えた。
その仕草があまりにも自然で、でも甘くて、胸がまた落ち着かなくなる。
「先輩こそ、大丈夫ですか?」
「うん。でも、ちょっとだけこのままぼーっとしてたい」
やわらかな声だった。
その響きが心地よくて、俺も自然と肩の力が抜けていく。
「じゃあ、ぼーっとしましょう」
「うん」
先輩は小さく笑って、つないだ手をまたきゅっと握った。
そのたびに、離したくないって言われているみたいで、胸の奥が甘く満たされる。
しばらくして映画が一区切りついたところで、先輩が名残惜しそうに体を起こした。
「……そろそろ、お風呂の順番決めないとね」
「ですね」
そう答えながらも、先輩はまだ俺の手を離さない。
ソファの上で向き直るみたいに座り直して、そのままじっと俺を見つめてくる。
「どうしました?」
「なんでもない」
そう言いながら、先輩は少しだけ頬をゆるめた。
「ただ、今日の藤崎くん、ずっと近くにいてくれるなって思って」
「先輩が引っ張ってるんですよ」
「そうだけど」
先輩はくすっと笑う。
「でも、ちゃんとついてきてくれるの、うれしい」
その言葉がやさしくて、胸の奥がじんとする。
先輩は本当に、俺が隣にいることを喜んでくれる。
それが何よりうれしかった。
「俺だって、先輩の隣にいたいです」
そう言うと、先輩は一瞬だけ目を丸くして、それからとても幸せそうに笑った。
「……そういうこと、さらっと言うのずるい」
「先輩にだけは言われたくないです」
「ふふ、たしかに」
笑い合ったあと、先輩はようやく手を離した。
でも完全に離れるのが惜しいみたいに、最後に指先をそっとなぞっていく。
その小さな仕草だけで、また胸が高鳴った。
「じゃあ、先に入ってきていいわよ」
先輩は立ち上がりながら言った。
「え、俺が先でいいんですか?」
「うん。パジャマもあるし、タオルも貸すから」
そう言って、先輩は洗面所のほうへ歩き出す。
俺も後を追うと、先輩は棚から新しいタオルを取り出して、俺に手渡してくれた。
「はい。これ使って」
「ありがとうございます」
「歯ブラシも、もう置いてあるからね」
その言い方がどこかうれしそうで、思わず笑ってしまう。
「そんなにうれしいんですか」
「うれしいわよ」
先輩は少しも迷わずうなずいた。
「洗面所に藤崎くんの歯ブラシがあるの、見るたびに幸せな気分になるもの」
そんなことを言われたら、照れないほうが無理だった。
「先輩、ほんとに甘いですね」
「今日は特にね」
先輩はそう言って、俺のパジャマの袖を軽くつまんだ。
「お風呂上がり、それ着て出てきてね。見るの、ちょっと楽しみだから」
その一言に、また顔が熱くなる。
先輩は俺の反応を見て、満足そうに笑った。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
風呂から上がって、先輩に借りたタオルで髪を拭きながらリビングへ戻ると、先輩はソファに座って待っていた。
俺の姿を見るなり、ぱっと表情がやわらかくなる。
「おかえり」
その言い方が、まるで本当に帰ってきたみたいで、胸の奥がじんわり熱くなった。
「ただいま、でいいんですかね」
そう言うと、先輩はうれしそうに目を細める。
「うん。ここではそれでいいの」
その言葉があまりにもやさしくて、一瞬、何も言えなくなった。
「……ただいまです」
改めてそう言うと、先輩は本当にうれしそうに笑った。
「おかえりなさい」
たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥がいっぱいになる。
先輩が作ってくれた居場所は、こういう言葉ひとつでもっとはっきり形になっていく気がした。
「こっち来て」
先輩がソファの隣をぽんぽんと叩く。
近づくと、先輩は俺の髪を見て少し眉を下げた。
「まだちょっと濡れてる」
「すぐ乾くと思います」
「だめ。風邪ひいたら困るもの」
そう言って、先輩は自分の首にかけていた小さめのタオルを外し、俺の髪にそっと当てた。
「先輩、自分でやりますよ」
「今日は私がやりたいの」
その言い方が甘くて、結局おとなしくされるがままになる。
先輩は俺の髪をわしゃわしゃするのではなく、本当に丁寧に、水気を吸い取るみたいにやさしく拭いてくれた。
「……なんか、すごいですね」
「何が?」
「ここまでされると、ほんとに甘やかされてるなって」
そう言うと、先輩は少しだけ笑った。
「言ったでしょ。ここではいっぱい甘やかすって」
その声は、お風呂上がりのあたたかい空気よりもずっとやわらかかった。
髪を拭き終えると、先輩は満足そうにうなずいた。
「うん、これでよし」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
先輩はそう言ってから、ふと俺の手を取った。
お風呂上がりで少し温かい手を、先輩の細い指がそっと包む。
「やっぱり、つないでると落ち着く」
「先輩、今日ずっと言ってますね」
「だって本当なんだもの」
先輩は少しだけ照れたように笑って、そのまま俺を自分のほうへ引き寄せた。
気づけば、また肩が触れ合う距離に戻っている。
「次、私も入ってくるね」
「はい」
「そのあいだ、寝ないで待っててくれる?」
その聞き方が、少しだけ甘えるみたいで可愛かった。
「待ってますよ」
「ほんと?」
「ほんとです」
そう答えると、先輩はうれしそうに目を細めた。
それから、つないだ手を離す代わりみたいに、一瞬だけ俺をぎゅっと抱きしめる。
「じゃあ、行ってくる」
耳元でそう言われて、胸がどきりと跳ねた。
「……いってらっしゃい」
先輩は満足そうに笑って、ようやく離れる。
でも離れる直前まで、名残惜しそうに俺の袖をつまんでいた。
先輩が風呂に入っているあいだ、俺はリビングでぼんやりと部屋を見回していた。
テーブルの上にはお菓子。
ソファには二人分のくぼみ。
洗面所には並んだ歯ブラシ。
寝室には二つの枕と、小さな棚。
どこを見ても、今日一日で増えた“二人分”の気配がある。
それがうれしくて、自然と頬がゆるんでしまう。
しばらくして、洗面所のほうから物音がして、先輩が戻ってきた。
部屋着姿の先輩は、いつもより少しだけ無防備に見えて、でもやっぱりきれいだった。
「ただいま」
先輩はそう言って笑う。
「おかえりなさい」
返すと、先輩はうれしそうに近づいてきた。
「ちゃんと待っててくれた」
「約束しましたから」
「えらい」
そう言って、
先輩はまた俺の隣に座る。
そして当然みたいに手をつないで、
肩を寄せてきた。
「……やっぱり落ち着く」
小さくつぶやくその声に、
俺も自然と笑ってしまう。
お泊まり会は、まだ続いている。
夜はこれからで、
ベッドに入るまでには
まだもう少し時間がある。
でもたぶん、
この先もずっとこんなふうに甘いのだろう。
先輩の手のぬくもりを感じながら、
俺は静かに思った。
今夜はきっと、
眠る直前まで幸せだ。
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