新しい男と去った元カノ。絶望の俺に手を差し伸べた高嶺の花
リナが神谷と並んで中庭を去っていったあと、俺はしばらく動けなかった。
雨が降り出す前の、あの独特の湿った空気が肌にまとわりつく。
胸の奥が空洞みたいにスカスカで、何も感じない。悲しいとか悔しいとか、そういう感情が出てくる前に、心が壊れてしまったような感覚だった。
二年間。
俺の青春のほとんどを占めていた時間が、たった数分の会話で終わった。
しかも、あんな雑な振られ方で。
ベンチに腰を下ろすと、ようやく雨が落ちてきた。
最初はぽつり、ぽつりと控えめだったのに、すぐに本降りへ変わる。
制服の肩が濡れ、髪から滴る水が頬を伝う。
涙なのか雨なのか、自分でもわからなかった。
「……俺、何してんだろ」
呟いた声は雨音にかき消された。
リナは神谷と帰ると言っていた。
今ごろ二人で並んで歩いているのだろうか。
俺が二年間守ってきた笑顔を、今は別の男が見ているのだろうか。
考えたくないのに、頭の中に勝手に浮かんでくる。
雨はさらに強くなり、靴の中まで水が染みてきた。
そのときだった。
「……藤崎くん?」
雨音の中でもはっきり聞こえる、澄んだ声。
顔を上げると、そこに立っていたのは――
学園一の高嶺の花。
誰もが近づくことを恐れる完璧令嬢。
如月澪先輩だった。
黒髪のロングは雨に濡れず、傘の下で静かに揺れている。
整った顔立ちに、冷たい印象の瞳。
普段なら絶対に俺なんかに話しかけてこないはずの人。
「どうして、こんなところで濡れてるの?」
先輩は俺の前に立ち、傘を差し出してきた。
その仕草は優雅で、どこか怒っているようにも見えた。
「別に……大丈夫です。放っておいてください」
「放っておけるわけないでしょ」
即答だった。
その声は冷たいのに、なぜか胸に刺さるほど優しかった。
「顔、真っ青よ。……何があったの?」
「何も……」
「嘘。そんな顔して“何も”はないわ」
先輩は俺の腕を掴んだ。
細い指なのに、驚くほど力強い。
「話したくないならいい。でも、このまま雨に濡れてたら倒れるわ。……来て」
「どこに……?」
「いいから」
強引に引っ張られ、俺は立ち上がった。
先輩の傘に入ると、ふわりと上品な香りがした。
リナの甘い香りとは違う、落ち着いた大人の匂い。
歩きながら、先輩がぽつりと言った。
「……あの子と、別れたのね」
心臓が跳ねた。
「なんで……わかるんですか」
「見てたから」
「え……?」
「あなたが呼び出されて、あの子と話してるところ。
遠くからだけど、雰囲気でわかったわ」
先輩は少しだけ眉を寄せた。
「……あんな別れ方、ないわよ」
その言い方は、まるで自分が傷ついたかのようだった。
「別に……俺が悪いんで」
「悪くない」
先輩はきっぱりと言い切った。
「あなたは悪くない。悪いのは――」
そこで言葉を切り、少しだけ目を伏せる。
「……あの子よ」
雨音の中で、その言葉だけがやけに強く響いた。
校舎裏の屋根付き通路まで来ると、先輩は傘を閉じた。
俺の制服はびしょ濡れで、靴の中まで水が染みている。
「風邪ひくわね……」
先輩は俺の袖に触れ、濡れた布を見て小さくため息をついた。
「藤崎くん。このあと予定は?」
「ないですけど」
「なら、少し付き合って。あなたのために、どうしても行きたい場所があるの」
「俺の……ため?」
「そうよ」
先輩はまっすぐ俺を見つめた。
その瞳は冷たいはずなのに、今はどこか熱を帯びているように見えた。
「あなたを、このまま一人にしたくないの」
胸がぎゅっと締めつけられた。
リナに捨てられた直後の俺に、その言葉はあまりにも優しすぎた。
「……なんで、俺なんかに」
「“なんか”じゃないわ」
先輩は一歩近づき、俺の胸元に手を伸ばした。
濡れたシャツをそっと掴む。
「藤崎くんは……放っておけないの」
その距離は、リナとハグしたときよりも近かった。
息が触れそうなほど。
先輩は小さく息を吸い、そして――
「……辛かったでしょ」
その一言で、張りつめていたものが崩れた。
涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえる。
先輩はそんな俺を見て、そっと腕を伸ばした。
「泣いていいわよ。……誰も見てないから」
その腕は、リナのときよりもずっと温かく見えた。
気づけば俺は、先輩の胸元に顔を埋めていた。
先輩は驚いたように一瞬固まったが、すぐに優しく背中に手を回してくれた。
「……大丈夫。もう大丈夫よ、藤崎くん」
その声は、壊れた心に染み込むように優しかった。
雨の音が遠くなる。
先輩の体温だけが、はっきりと伝わってくる。
しばらくして、先輩は俺の背中を軽く叩いた。
「……行きましょう。ここにいたら、もっと冷えちゃう」
「どこに……?」
「安心できる場所よ。あなたが、ちゃんと呼吸できる場所」
その言葉の意味を、このときの俺はまだ理解していなかった。
ただ、先輩の手が離れた瞬間、胸の奥がひどく寂しくなった。
リナに捨てられた直後の俺が、誰かの温もりを求めてしまうのは、弱さなのだろうか。
でも――
先輩は振り返り、俺の手をそっと握った。
「大丈夫。私がいるから」
その一言で、崩れかけていた心が少しだけ支えられた。
そして俺はまだ知らない。
この瞬間から、如月先輩の“本気”が静かに始まっていたことを。
そして、俺の人生が大きく変わる夜が、すぐそこまで迫っていることを。
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