呼び出しと終わりのキス
六月の放課後、湿気で空気が重かった。チャイムが鳴った瞬間、机の上に置いていたスマホが震える。画面には、短いメッセージが一つ。
『今日、放課後。中庭のベンチ来て。話ある。――リナ』
その一文を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てた。二年間付き合ってきた彼女、星野リナ。明るくて、よく笑って、ちょっと口が悪くて、でも俺には甘えてくるギャル。……だったはずだ。
ここ最近、リナは明らかに変わっていた。俺のLINEは既読スルーが増え、返ってきても「りょ」「おけ」みたいな雑なスタンプだけ。前は「今日も好きー」とか「恒太、会いたい」とか、うるさいくらい送ってきていたのに。放課後、一緒に帰ることもほとんどなくなった。その代わりに、バスケ部のエース・神谷と並んで歩いているのを何度も見た。廊下で肩を寄せ合って笑っている姿を見たとき、胸がざわついた。でも俺は何も言えなかった。「束縛する男はマジ無理なんだけどー」が、リナの口癖だったからだ。
教室を出て、中庭へ向かう廊下を歩く。窓の外の空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうな色をしている。階段を降りるたび、足が少しずつ重くなっていく。
中庭に出ると、ベンチのところにリナがいた。金髪に近い明るい茶髪を巻いたロングヘア。短めのスカートに、ピンクのネイル。スマホをいじりながら足を組んでいて、まさに「ギャル」って感じの姿。俺が惚れた女の子が、そこにいた。
「おつー。来たじゃん、恒太」
顔を上げたリナは、いつもの調子で軽く手を振った。けれど、その笑顔はどこか薄い。
「話って、何?」
そう聞くと、リナはあごでベンチを指した。
「まあ座りなよ。立たれてると話しづらいし」
言われるまま隣に座る。木のベンチは少し冷たくて、背筋がぞくりとした。リナはスマホをポケットに突っ込み、ため息を一つ。
「じゃ、単刀直入に言うわ」
嫌な予感が、はっきりと形を持つ。
「うちさ、恒太と別れよっかなーって」
あまりにも軽い口調だった。
「……は?」
思わず間抜けな声が出る。リナは肩をすくめた。
「いや、マジで。うちら、もう無理じゃね? って思ってさ」
心臓が一瞬止まったような感覚がした。
「ちょっと待てよ。なんで急に――」
「急じゃないし。むしろ遅いくらいじゃね?」
リナは爪を眺めながら、気だるそうに続ける。
「最近さ、全然一緒にいなかったじゃん。LINEもさ、うちから送らなきゃ来ないし。なんかもう“彼氏感”なくね?」
「それは……リナが冷たくなったからだろ」
「はい出た、そういうとこ」
リナはあきれたように笑った。
「全部うちのせいにするの、マジ陰キャって感じ。さ、恒太ってさ、優しいのは認めるよ? でも“優しいだけ”なんだよね」
「優しいだけって……」
「なんでも『いいよ』って言うし、怒らないし、主張しないし。正直さ、“彼氏”っていうより“保護者”なんだよね。安定はしてるけど、恋愛としてはつまんないっていうか」
言葉の一つ一つが、鋭く刺さる。
「それにさー」
リナはわざとらしく髪をかき上げた。
「最近、神谷と仲良くしてんの見てたっしょ?」
やっぱり、その名前が出た。
「最初はただのクラスメイトだったんだけどさ、一緒に帰ったり、バスケの試合見に行ったりしてるうちにさー……あー、この人といる方が楽しいなーって」
「……まさか」
「うん。神谷のこと、好きになっちゃった」
あまりにもあっさり言うから、逆に現実味がなかった。
「お前……浮気してたのか」
「んー、まあ、そういうことになる? でもさ、気持ちって止められなくない? うち悪くなくない?」
「悪いだろ普通に!」
思わず声が荒くなる。リナは少し目を丸くしてから、すぐに鼻で笑った。
「うわ、やっと怒った。レアじゃん。てかさ、怒るの遅いんだよね。うちが神谷と歩いてても何も言わないし。そういうとこが“つまんない”って言ってんの」
「……束縛したら嫌だって、リナが――」
「だからって、全部スルーは違くない? 彼女が他の男と仲良くしてんのに『好きにしなよ』って顔してんの、マジで“冴えない陰キャ彼氏”って感じ」
はっきり言われた。
「恒太ってさ、“いい人”ではあるんだよ。真面目だし、浮気しなさそうだし、将来は安定しそうだし。でもさ、うち今、“いい人”と落ち着きたいわけじゃないの。もっとドキドキしたいし、振り回されたいし、バカみたいな恋愛したいの」
「じゃあ……俺のことは、もう好きじゃないのか」
自分でも情けないと思いながら、そう聞いてしまう。リナは少しだけ考えるふりをしてから、あっさり言った。
「“人として”は好きだよ? 友達としてなら全然アリ。でも“彼氏として”はナシ。神谷の方が男として上だし」
完全に切り捨てられた。
「だからさ、別れよ。うちは神谷とちゃんと付き合うから。そっちの方が絶対楽しいし」
「……わかったよ」
それ以上、何を言っても無駄だと悟った。俺がどれだけ言葉を重ねても、リナの中ではもう答えが出ている。
「お、意外とあっさり。まあ、引き止められても困るけど」
リナは立ち上がり、スカートの裾を軽く払った。その仕草すら、もう俺のものじゃない。
「じゃ、最後にさ」
くるりと振り返り、少しだけ口元を緩める。
「ハグしていい? 二年も付き合ったんだし、最後くらい良くない?」
その言い方が、残酷だった。
「……好きにしろよ」
そう答えると、リナは一歩近づいてきて、俺の胸に腕を回した。細い体が触れて、甘いシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。心臓が勝手に早くなるのが悔しい。
「ありがとね、恒太。優しくしてくれて。誕生日とかちゃんと祝ってくれて。そういうとこはマジで好きだったよ」
耳元で囁かれる声は、少しだけ震えていた。でもそれは、俺を失う悲しみじゃない。自分の罪悪感をごまかすための震えだ。
「でも、もう終わりね」
リナは俺から離れ、さっさと距離を取った。さっきまで触れていた温度が、あっという間に冷えていく。
「じゃ、うち神谷と帰るから。恒太もさ、次はもっとイケてる彼女作りなよ。陰キャ脱出、がんばー」
軽く手を振り、リナは中庭の出口へ歩いていく。その背中は、二年間見慣れてきたはずなのに、やけに遠く感じた。
曇り空から、ぽつりと冷たいものが落ちてくる。すぐに細かな雨に変わり、制服の肩を濡らしていった。傘なんて持ってきていない。でも、どうでもよかった。
――終わったんだ。
二年間の思い出が、雨に溶けていくような気がした。胸の奥がスカスカで、何も入ってこない。悔しいとか、悲しいとか、その手前で感情が止まっている。
どれくらいそうして立ち尽くしていたのか、わからない。ポケットの中でスマホが震えた。画面には、見覚えのない名前からのメッセージが表示されている。
『如月先輩:藤崎くん、今どこ?』
学園一の冷徹美少女と噂される先輩の名前だった。なぜ俺の連絡先を知っているのか。なぜ、このタイミングでメッセージを送ってきたのか。その理由を、このときの俺はまだ知らない。ただ一つだけはっきりしているのは――この雨の放課後を境に、俺の「彼女持ちの平凡な日常」は、静かに終わりを告げたということだけだった。
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