先輩、俺の居場所を作りたくなる
買ってきた枕を大事そうに抱えたまま、
澪先輩はマンションのエントランスを歩いていた。
その姿は、まるで壊れやすい宝物でも抱いているみたいで、
見ているだけで胸の奥がじんわりと温かくなる。
ただの枕のはずなのに、先輩がそんなふうに抱えているだけで、
それが特別な意味を持つものに見えてしまうから不思議だった。
柔らかな照明に照らされたエントランスで、
先輩の横顔はどこか嬉しそうで、少しだけ照れているようにも見えた。
腕の中の枕を落とさないように抱きしめながら、
それでも足取りは軽く、心が弾んでいるのが伝わってくる。
「藤崎くん、早く上行こ。
あなたの枕、置きたい場所があるの」
先輩はそう言ってエレベーターのボタンを押した。
その頬はほんのり赤く染まっていて、
何気ない一言のはずなのに、妙に胸を高鳴らせる響きがあった。
「置きたい場所……?」
思わず聞き返すと、
先輩は少しだけ視線をそらし、それから小さくうなずいた。
「うん。
あなたのスペース、作りたいの」
その言葉は、
どんな告白よりも甘く、まっすぐに胸へ届いた。
“スペースを作りたい”――ただそれだけの言葉なのに、
そこには先輩の気持ちが静かに、けれど確かに込められている気がした。
◆
部屋に入ると、
先輩は靴を脱ぐのもそこそこに、すぐ寝室へ向かった。
俺もその後を追いながら、
胸の奥に広がっていく不思議な熱をどう扱えばいいのかわからずにいた。
寝室に入ると、先輩はベッドのそばで立ち止まる。
そして、そこを見つめながら静かに言った。
「ここね……昨日、藤崎くんが寝てた場所」
ベッドの端をそっと撫でるその仕草は、
まるで大切な記憶を確かめるみたいに優しかった。
昨日の夜のことを思い出しているのか、
先輩の表情はどこか真剣で、でもその奥に柔らかなぬくもりがあった。
「昨日は私の枕を貸したけど……
今日は、あなたの枕を置くの」
そう言って先輩は、買ってきた枕を丁寧に袋から取り出した。
ビニールの擦れる小さな音さえ、
この空間では妙に静かで、特別なものに感じられる。
先輩は急ぐことなく、まるで何かの儀式でもするみたいに、
ゆっくりとその枕をベッドへ置いた。
位置を少し整えて、
角度を確かめるように手を添えて、
それから満足したように小さく息をつく。
「……うん。
これで、藤崎くんの場所ができた」
その声は、
嬉しさで少しだけ震えていた。
たったひとつ枕が増えただけなのに、
それだけで本当に“俺の場所”が生まれたような気がしてしまう。
「俺の……場所」
思わずそうつぶやくと、
先輩は俺のほうを振り向き、少し照れたように笑った。
「そうよ」
その笑顔はやわらかくて、
見ているだけで胸がいっぱいになる。
「藤崎くんが泊まるとき、
ここがあなたのスペースになるの」
その言葉は、
胸の奥へ静かに落ちていった。
大きな音を立てるわけでもなく、
けれど確かに深いところへ届いて、
じんわりと熱を広げていく。
「先輩……そんなに俺のこと考えてくれてたんですか」
そう聞くと、
先輩は少しだけ目を丸くして、すぐに当然だと言うように口を開いた。
「当たり前でしょ?」
先輩はベッドの端に腰を下ろし、
俺の手をそっと握った。
その手はあたたかくて、
触れられた瞬間、胸の奥の何かがやさしくほどけていく気がした。
「藤崎くんが疲れてたら、私……嫌なの。
あなたには、ちゃんと休んでほしいの」
その声は、
昨日の文化祭よりも甘くて、
どんな提灯の灯りよりも温かかった。
相手を思いやる気持ちが、
飾らない言葉のひとつひとつににじんでいて、
それがたまらなく嬉しかった。
◆
「それでね、藤崎くん」
「はい」
先輩は俺の手を握ったまま、
少しだけいたずらっぽく、それでいて真剣な目を向けてきた。
「枕だけじゃ足りないの」
「足りない……?」
聞き返すと、
先輩はこくりとうなずいた。
「うん。
あなたのスペースを作るなら……
もっと必要なものがあるの」
そう言って立ち上がると、
先輩は部屋の隅を指さした。
「ここ。
このスペース、藤崎くんのものにしたいの」
そこには小さな棚と観葉植物が置かれていて、
部屋の中でも静かで落ち着いた空間になっていた。
今まではただの一角に見えていたその場所が、
先輩の言葉ひとつで急に意味を持ち始める。
「ここにね……
藤崎くんの着替えとか、
歯ブラシとか、
好きなものとか……置いてほしいの」
先輩は少しだけ視線を落とした。
けれど次の瞬間には、
まっすぐに俺の目を見つめていた。
「藤崎くんが“帰ってきてもいい場所”を作りたいの」
その言葉を聞いた瞬間、
胸が一気に熱くなった。
“泊まってもいい”ではなく、
“帰ってきてもいい場所”。
その響きがあまりにも優しくて、
あまりにもあたたかくて、
何も言えなくなりそうになる。
「俺……そんなにここにいていいんですか」
ようやく絞り出した声に、
先輩は迷いなく答えた。
「いてほしいの」
即答だった。
ためらいも、冗談めかした響きもない。
ただまっすぐで、
だからこそ胸に深く刺さる。
「昨日の夜、あなたが隣にいて……
すごく安心したの。
だからね……」
先輩はもう一度、
俺の手をぎゅっと握った。
その力は強すぎないのに、
離したくないという気持ちが伝わってくるようだった。
「藤崎くんの居場所、ここに作りたいの」
その言葉は、
どんな甘いものよりも甘かった。
耳で聞いているはずなのに、
まるで心そのものに触れられているみたいで、
胸の奥がどうしようもなく満たされていく。
◆
「ねえ、藤崎くん」
「はい」
先輩は少しだけはにかみながら、
それでも嬉しそうに続けた。
「今日……一緒に買いに行こ?」
「何をですか?」
そう尋ねると、
先輩は指を折るようにしながら答えた。
「あなたの歯ブラシと、
あなたのパジャマと、
あなたの着替えを入れる小さな棚」
そこまで言ってから、
先輩は少し照れたように笑った。
「……あなたのものが部屋にあると、
私、すごく嬉しいの」
その声は、
文化祭の夜よりも甘くて、
どんなミルクよりも温かかった。
自分のために誰かが場所を作ってくれること。
自分のものがここにあるだけで嬉しいと言ってくれること。
そのひとつひとつが、
胸の奥にやさしく積もっていく。
「……じゃあ、行きましょうか」
そう言うと、
先輩の表情がぱっと明るくなった。
「うん。行こ」
先輩は俺の手を引き、
そのまま玄関へ向かう。
握られた手のぬくもりが心地よくて、
このままずっと離したくないと思った。
その背中は、
昨日よりも、今日よりも、
ずっと幸せそうだった。
歩くたびに揺れる髪も、
振り返ったときの笑顔も、
全部がやわらかな喜びに満ちているように見える。
こうして――
俺の“居場所”は、澪先輩の部屋の中で静かに形を作り始めた。
枕ひとつ、棚ひとつ、歯ブラシひとつ。
そんな小さなものを揃えていくだけなのに、
そこには確かに、二人で過ごす未来の気配があった。
先輩が作ろうとしてくれているのは、
ただ物を置くための場所なんかじゃない。
俺が安心して帰ってこられる場所で、
俺が自然に隣にいられる場所で、
そしてきっと、先輩と一緒にぬくもりを重ねていける場所だった。
そのことが、
どうしようもなく嬉しかった。
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