先輩、恒太のためにあるものを買いに行く
朝ごはんを食べ終えたあと、澪先輩は食器を片づけながら、何度もちらちらと俺のほうを見ていた。
視線が合いそうになるたびに、すっと逸らされる。
何か言いたそうなのに、言わない。
でも、明らかに気にしている。
そんな様子があまりにもわかりやすくて、俺はソファに座ったまま、ついその背中を目で追ってしまう。
皿を重ねる手つきはいつも通り落ち着いているのに、どこかそわそわしているようにも見えた。
学校で見せる完璧な先輩なら、こんなふうに気持ちを隠しきれずに視線を送ってくることなんてない。
だからこそ、その不器用な落ち着かなさが、妙に愛おしかった。
「……先輩、どうかしました?」
思い切ってそう声をかけると、先輩はぴくっと肩を揺らした。
それから振り返って、少しだけ慌てたように笑う。
「えっ、あ、ううん。なんでもないの」
どう見ても“なんでもある”顔だった。
けれど、先輩はそれ以上すぐには言わない。
言わないまま、食器を片づけ終えると、静かにこちらへ歩いてきて、ソファに座る俺の横へそっと腰を下ろした。
その距離が近い。
肩が触れそうなくらい近いのに、先輩は少しだけ視線を落としていて、珍しく言葉を選んでいるようだった。
「藤崎くん」
「はい」
「今日ね……一緒に出かけたいの」
その声はやわらかくて、少しだけ照れくさそうだった。
昨日の文化祭のときとは違う、もっと私的で、もっと近い響きがある。
「出かける?」
「うん。
あなたのために、買いたいものがあるの」
その言い方に、胸が小さく跳ねた。
俺のために。
その一言だけで、先輩がどれだけ自然に俺を自分の生活の中へ迎え入れようとしてくれているのかが伝わってくる。
「何を買うんですか?」
そう聞くと、先輩は少しだけ唇を結んでから、いたずらっぽく微笑んだ。
「それは……着いてからのお楽しみ」
昨日の文化祭でも聞いた言葉だ。
でも今日は、その声がさらに甘い。
ただ秘密にしているというより、俺の反応を楽しみにしているような、そんなやわらかさがあった。
マンションを出て歩き始めると、先輩は自然と俺の腕に手を絡めてきた。
もうそれが当たり前みたいに、迷いなく。
朝の街はまだ静かで、休日らしいゆるやかな空気が流れている。
文化祭の翌日だからか、昨日の熱気が嘘みたいに穏やかだった。
その静けさの中で、先輩の体温だけがやけにはっきりと感じられる。
「藤崎くん、歩くの早い」
先輩が少しだけ頬をふくらませるようにして言う。
その言い方が可愛くて、思わず足を止めそうになる。
「すみません」
「いいの。
でも……もう少しゆっくり歩いて?」
その声は、まるで“隣にいたいから”と言っているみたいだった。
急いで目的地へ向かうより、この時間そのものを長く味わいたい。
そんな気持ちが滲んでいて、胸の奥がじんわり熱くなる。
「はい。ゆっくり行きましょう」
そう答えると、先輩は満足そうに目を細めた。
そして、さっきより少しだけ強く俺の腕に寄り添ってくる。
その重みが心地よくて、歩幅を合わせることさえ嬉しく感じた。
しばらく歩いたあと、先輩がふいに立ち止まった。
「ここ」
そう言って指差した先にあったのは、大きな家具・生活雑貨の専門店だった。
広いガラス張りの入口の向こうには、寝具や収納用品、食器やインテリアが整然と並んでいるのが見える。
「家具屋……ですか?」
「うん」
先輩は少しだけ頬を赤くした。
その表情に、ここへ来た理由がただの買い物ではないのだとわかる。
「藤崎くんのために、買いたいものがあるの」
「俺のために?」
「そう。
昨日、文化祭のあと……うちに泊まったでしょ?」
「はい」
そこまで聞いても、まだ何を買うのかはわからない。
けれど先輩は、少し視線を泳がせながら続けた。
「その……藤崎くんが寝てる顔、すごく可愛かったの」
「えっ……」
思わず変な声が出る。
寝顔を見られていたことにも驚くし、それをこんなふうに真顔で言われることにも慣れない。
先輩はそんな俺の反応に少しだけ照れながらも、ちゃんと続けた。
「だからね……
あなたがもっとゆっくり休めるようにしたいの」
そう言いながら店内へ歩き出し、先輩は小さな声で続ける。
「藤崎くん専用の……枕と毛布、買いたいの」
その言葉に、胸が一気に熱くなった。
専用。
その響きが、思っていた以上に重くて甘い。
ただの寝具じゃない。
“これからも泊まることがある”という未来を、先輩はあまりにも自然に含ませている。
「俺専用……?」
「うん。
あなたが泊まるとき、ちゃんと休めるように。
昨日のは、私のを貸しただけだから……」
先輩は指先をもじもじさせながら言った。
その仕草が珍しくて、可愛くて、胸がくすぐったくなる。
「藤崎くんがうちに来るの、これからもあるでしょ?」
その言葉は、未来を当然みたいに含んでいた。
俺がまたここへ来ること。
先輩の部屋で過ごすこと。
そういう時間がこれからも続いていくことを、先輩はもう疑っていない。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
「だから……あなたのものを揃えたいの」
先輩は棚に並ぶ枕を見ながら、真剣な顔で言った。
「藤崎くんが一番よく眠れるやつ、選ぼ?」
その声は、どんな告白よりも甘かった。
好きだと言われるのももちろん嬉しい。
でも、こうして自分の生活の中に俺の居場所を作ろうとしてくれることは、それ以上に深く胸へ響く。
枕売り場で、先輩は本気だった。
「これは柔らかすぎる……藤崎くん、首痛めちゃう」
「これは硬い……藤崎くん、絶対寝返りしづらい」
「これは高さが合わない……藤崎くん、寝つき悪くなる」
ひとつひとつ手に取って、感触を確かめて、真剣に比較していく。
その姿はまるで医者か、睡眠の専門家みたいだった。
でもその真剣さの全部が、俺のために向けられている。
そう思うだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
「……先輩、そんなに俺のこと考えてくれてたんですか」
思わずそう漏らすと、先輩は少しだけ照れたように眉を下げた。
「当たり前でしょ?」
その返事は短いのに、まっすぐだった。
「藤崎くんが疲れてたら、私……嫌なの。
あなたには、毎日ちゃんと休んでほしいの」
その言葉は、静かに胸の奥へ落ちていく。
ただ好きだから一緒にいたい、というだけじゃない。
ちゃんと休んでほしい。
疲れてほしくない。
そういう日常の部分まで気にかけてくれることが、たまらなく嬉しかった。
やがて先輩が選んだのは、高級ホテルでも使われるような上質な枕だった。
見た目はシンプルなのに、触れるとふんわりしていて、でもしっかり支えてくれそうな感触がある。
「藤崎くん、これ絶対合う。
あなたの寝顔、もっと可愛くなる」
「寝顔……見てたんですか?」
そう聞くと、先輩は少しも悪びれずに微笑んだ。
「見てたよ。
ずっと見てたよ」
その言葉は、どんな甘いものよりも甘かった。
恥ずかしいはずなのに、不思議と嫌じゃない。
むしろ、そんなふうに見つめられていたことが嬉しくて、胸が熱くなる。
帰り道、先輩は買った枕の袋を大事そうに抱えていた。
まるで壊れものを扱うみたいに、丁寧に。
その姿を見ているだけで、先輩がこの買い物をどれだけ大切に思っているのかが伝わってくる。
「藤崎くん」
「はい」
「今日ね……すごく嬉しいの」
「何がですか?」
先輩は少しだけ歩く速度を落としながら、やわらかく答えた。
「あなたのものを買えたこと。
あなたのために選べたこと。
あなたが隣にいてくれたこと」
そのひとつひとつが、先輩にとってちゃんと意味のあることなのだとわかる。
ただ買い物をしただけじゃない。
俺のために選ぶ時間そのものが、先輩にとって幸せなのだ。
先輩は俺の手を握りながら続けた。
「藤崎くんの生活に、
私が少しでも関われるの……嬉しいの」
その声は、昨日の文化祭よりも甘くて、どの提灯よりも温かかった。
生活に関わる。
その言葉の重みが、胸の奥で静かに広がっていく。
好きという気持ちが、もう特別な日だけのものじゃなくて、日常の中へ入り始めている。
そんな実感があった。
「……先輩」
「なに?」
「俺も……嬉しいです。
先輩が選んでくれたもの、使えるの」
そう言うと、先輩は少しだけ目を見開いて、それからやわらかく微笑んだ。
そして歩く速度を落とし、俺の肩にそっと寄りかかる。
「藤崎くん。
これからも……いっぱい甘えてね?」
その言葉は、ただのお願いじゃなかった。
これから先も、もっと自然に、もっと深く、互いの生活に入り込んでいくことを許すような響きがあった。
まるで、同棲編の始まりを告げるみたいに。
その甘くてやさしい予感に、胸の奥が静かに熱を帯びていった。
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